巡察

平成十五年 十一月二日

私用で富山に行きました際に一日フリーとなったので
井波と高岡を散策してきました。今回は事前の下調べ無しで
行き当りばったりの一人巡察だっただけにドキドキでした(^―^)←冒険好きv

→は毎回北陸の旅行の際に立ち寄る北陸自動車道SAの尼御前。
源平合戦の余韻さめやらぬ鎌倉時代初期のこと。
実兄である源頼朝に追われた源義経が弁慶らを従え、
この地方に落ちのびた際、義経一行に付き従っていた
一人の尼が、一行の足手まといになることをおそれ、
義経らの無事を祈りつつ断崖絶壁から荒れる日本海に
身を投げ入れたという言い伝えがあります。

天気も良かったので海を撮影しようとSAの裏の
公園を歩いていましたら、この尼御前の像の前で
祭か何かの練習かで話太鼓の演奏をやっていたので
日本海の波の音と一緒に鑑賞してきました♪

さて散策レポートですが、スターと地点は井波の旧駅前。
井波駅の駅舎は、鉄道廃止の後も町の玄関口として
バスターミナルや町の観光物産館として使われています。

一見、お寺みたいな重厚な建物なので「これがバス亭?」と
最初恐る恐る中を伺いました。ら、年季の入った木の椅子が
歴史を感じさせるものでした。が、…時刻表を見て唖然。
一時間に一本。時間によってはバスが無い状態…
移動手段はバスだけなので気を付けましょう。

この寺院建築の駅舎は昭和九年(1934)瑞泉寺の建立を勅願された
後小松天皇の五百回聖忌法会にあわせて建設されたもの。
この地出身の寺社大工で、東京の築地本願寺の建築も手がけた
松井角平さん(松井組)が施工。
松井家は加賀藩のおかかえ大工として代々
瑞泉寺の再建、補修に携わってきたということです。
平成八年に登録有形文化財の指定を受けています。

井波といえば古刹瑞泉寺の門前町として栄えて、
寺社を手がける大工や欄間彫刻が盛んなことで有名な処。
瑞泉寺再建に端を発し、欄間・獅子頭・天神様などの
伝統工芸品を生み出した井波彫刻は、昭和五十年に
国の伝統的工芸品に指定されました。

町では沢山の木彫刻店があり、町を歩いていると
通りのそこかしこから木槌の音が響いています。
木の香が香る伝統と歴史の町。拙者の叔父さんも欄間彫りで、
よく木屑で匂い袋とか作ってくれましたv

AM9:00。まず駅舎を後に向った先は瑞泉寺
明徳元年(1390年)、浄土真宗本願寺5代門主
綽如上人(しゃくにょしょうにん)が、建立した瑞泉寺。
ということで寺へ続く八日町通りの手前に上人の像があります。

瑞泉寺建立の由来ですが、明徳元年、綽如上人が
京都へ向かう途中、此の地に来た時乗っていた馬が前に進まず
地面を蹴ったところ、そこから清水が湧き出たと伝えられています。
綽如上人はこの不思議さに感激されて、この地に
めでたい泉の湧き出る寺、すなわち瑞泉寺を建立されたといいます。
→上人の像はその時の様子を表したもの。
またこれが転じて井波の地名の由来となったとか。

瑞泉寺の表参道である八日町通りには、
現在も古い町並みが残っていて、坂を上りきるまでに寄り道し放題(笑
途中で、観光協会(?)があったのでパンフレットを失敬して散策開始。

正面突きあたりの階段をのぼればそびえたつ重厚な山門。
入り口からみごとな彫刻に目を奪われます。
素人の目から見ても「ほぅ…」と溜息が出るくらいです。
御堂の受付の方から瑞泉寺の至るところに施されている
彫刻の技巧の数々を伺いましたが、神獣や龍などの
仮想の生き物を模ったものが多く、それ故か幻想的な空間でした。

手元のMAPを頼りに次に足を向けたのは井波八幡宮
とにかく今回の巡察は行き当りばったりなので
旅の無事を祈る為に行ってみたのですが、
これがまた幻想的っ(感動! 御宮さんっって感じ!!

明徳四年(1393)に、山城国男山八幡大神を勧請し
八幡宮と称したことがはじまりと伝えられています。
その後、正保二年に近郷四八ヵ村の惣社として、
井波城の本丸土居の上に建立されたということで、
井波城跡がここの横手にあります。←この跡散策v

天保四年に八幡神を祀る四角神輿一社による巡幸が始められ、
続いて天保十二年に神明神を祀る八角輿、
天保十四年には諏訪明神を祀る六角輿が完成。
今も五月上旬に巡幸が行われ、「よいやさ祭り」が催されるとのこと。

その井波城ですが、井波八幡宮の左横手の脇道の先。
と、その手前で石垣の中程にある小さな門をくぐってみれば
臼浪水というのを発見。←とにかく手当たり次第覗いてみる(笑
どうも、かつての井波城の本丸跡にあたるそうで、
先に説明した馬が見つけた清水の場所がここだということで、
後に臼の胴を入れたので臼浪水と称したのだとか。
臼浪水、馬蹄石と並び浪化上人の筆と伝えられる標石が建っています。
この臼浪水は、「馬見の井戸」とも呼ばれ、その脇に
瑞泉寺12代桃化上人が建てたという小さな御堂があります。

さてさて井波城ですが、井波城は越中一向一揆の
総本山、瑞泉寺が築いた「一向一揆の城」。
城の遺構はほとんどありませんが、分厚く高い大土塁が
古城公園と八幡宮を取り囲むように残っています。
八幡宮の社殿裏には物見台らしき
櫓台まで残っているといいます。調べてみれば
この巨大土塁を築いたのは佐々成政であるとか。

天正九年、瑞泉寺7代顕秀のときに富山城主
佐々成政と戦い、堂舎・町屋ことごとく兵火に罹り落城。
佐々成政は、井波城を大改修して家臣の
前野小兵衛勝長を守将としましたが、天正十三年
豊臣秀吉の佐々征伐の時、金沢城主
前田利家に攻められ落城。井波城は前田氏の
持城となりましたが、やがて廃城となったということです。

そしてなぜかそこに佇む神武天皇(右)→ なにか由来があるのでしょうが不明。
因みに左は松島大杉(左)→ 井波城の大手門側に当時からあったといわれる
杉の老木で、瑞泉寺建立時からあったとすれば樹齢約600年!
井波の街の歴史を見守ってきた天然記念物、松島大杉です。

AM11:00。あらかた瑞泉寺の周辺を散策したので、少し足を伸ばして
「井波彫刻の里」へ。観光客用の井波彫刻の紹介ミュージアム兼、
御土産物屋さんなので、ここでしばし小休憩。
サイトで御世話になっている方々に御土産を買い込み。。。
荷物を重くして(失敗でした…歩く時は身軽でいたいのに)
井波駅に引き返し、バスで高岡へ大移動!!一時間ほどかかります。

PM1:00。高岡の駅前ですぐ目にするのが大伴家持像。
越中在任の天平十八年(1746)から五年間は歌人家持の絶頂期。
自然と人情に恵まれて220余首もの歌を詠んだということです。

家持像を後に「すえひろーど」を直進して関野神社に参拝。
そのまま北上して高岡郵便局の前まで行くと御本陣跡を発見。
高峰公園を横切って迷路小路(←おもいっきり迷子になりました)
を彷徨いつつ北上して辿り着いたのは高岡鋳物発祥の地
格子造りの街並が残るという金屋本町の通りをぶらぶら歩き、
とおりに並ぶ昔ながらの町屋通りを楽しみました。

が、ここでふと不安になったのが人とまったく会わないということ。
朝一から散策していてずっと不安だったのですが、この日
人との遭遇率がべらぼうに低いんです。ありえないくらい会わなさ過ぎて
一人旅もちょっと独りぼっち過ぎて心配になるくらいでした。。。
人口が少ない?ゴーストタウンっぽく思えてきて自然早足になりました(笑

金屋町を過ぎて旧南部鋳造所のキュポラと煙突を見学してから
進路を南にもどして次に向ったのは高岡大仏
奈良、鎌倉に次ぐ日本三大仏の一つということだったので
見学に行ったのですが、、、
奈良の大仏と比較したのがまずかったかしら(ー_ー;)
屋外にそのまま仏様が鎮座しているのですが、
思いのほか小さかったのでがっかり。。。
ちょうどこの日、大仏様の前でお祭をしていたようでした。

で、大仏様の正面左脇に見つけた「寄贈 高岡市出身漫画家
ドラえもん 藤子不二雄殿 昭和六十一年」なる立て札。
植木がちょんまりとありました。藤子不二雄先生って高岡出身だったんですね!?

PM2:20。大仏を背に右手へ徒歩15分。高岡古城公園へ。
慶長十四年(1609)、前田利家の息子、加賀藩二代藩主
前田利長が開いた高岡城は、大阪夏の陣の後、
廃城となりましたが水濠や土塁は残されて、約21万uの敷地が
城跡公園となって地域住民の憩いの場とされています。

二の丸に設けられた市民会館と図書館を過ぎた先の
だだっぴろい芝生の公園広場では家族連れがフリスビーとかして遊んでて
拙者も芝生に腰をおろしてくつろいできました。ごろごろごろ〜。
本丸に位置する本丸広場が芝生公園になっているようでした。

その芝生公園の端に見つけたカッコいい騎馬像は利長のもの。
すでにここまででも歩き疲れでふらふらしていたのですが、
悲鳴をあげる足に鞭打って中ノ島、小竹薮、三の丸まで見て周り、
鍛冶丸に設けられた博物館があったので見学ついでに
資料漁りしてきました。最近博物館ってファイルに綴れる
資料が配布されているのでありがたいですね!がっさがっさ。

資料館を後に大手口へ向えばそこには高山右近の銅像が。
高山右近といえば安土桃山から江戸初期にかけての
代表的なキリシタン大名で有名ですね。…が
それしか歴史の授業で習ってなかったので、なんでこんな所に右近が…?
と帰ってきてから調べなおしてみれば、

摂津国(大阪府)高槻城主となり織田信長に仕え、
豊臣秀吉により明石に移封されるも、秀吉のバテレン追放令を拒否して追放。
後に加賀前田家に高禄で迎えられ、利長にも重用され、
慶長19年(1614)正月に徳川幕府の禁教令により、国外追放となるまでに
築城の名手として金沢城や高岡城の縄張りを行なった。とのこと。

因みに右近は通称で名は長房、友祥、重友。
生まれは大和国(奈良県)、沢城主・高山飛騨守図書の嫡男。
秀吉の時に利休七哲のひとりとされ南坊等伯と号する
茶人でもあり、文武両道に優れたといいます。

PM4:00。日も暮れかけてきたので最後に利長墓所へ。
中学校を横切って石燈篭が立ち並ぶ参道を進めば鬱蒼と茂った
林の中にひっそり佇む石塔。林の間から中学校のグラウンドが
伺えるのですが、一人できて後悔しました。とっても怖かったです(0■0;)
だって一日を振り返って人とまったく会わないしっ墓所暗いしっ!!

そんなわけで長居したくなかったのですが、この利長の石塔は
武将のものとしては全国一という高さ。11.75mあるそうです。
そこには感嘆しつつ、そそくさと石燈篭の参道を引き返せば
足元にどんぐりがいっぱい落ちていたので記念にいくつか拾って戻りました。

夕日が落ちる前に駅まで戻りたかったので
八丁通をつかつか歩き高岡駅へ。
八丁通は瑞龍寺(今回参拝しませんでしたが、
利長の菩提寺曹洞宗の名刹)と利長墓所とを結ぶ白い石畳の参道で、
114基の石燈籠(現代風オブジェ)が並ぶ松並木。
まーっすぐなその参道の長さ、約八町=870m。
今回も井波の街と高岡の街を徒歩でがんがん歩き廻ったので、
駅に辿り着いた時には足が限界でした。←無茶し過ぎ。
今回も無事に旅が出来たことを感謝しつつ、巡察で収穫した
土産と資料の重さによろめきながら井波・高岡の巡察終了!


平成十五年 十一月十六日

十一月十五日と十六日は坂本竜馬一色。
というのも竜馬さんの誕生日&御命日。
高知空港が竜馬空港と名前まで変わってしまう勢いです(笑

で、今回拙者は京都は伏見の竜馬通り商店街で行われた
竜馬祭りのパレードに参加してきました。新撰組で(笑
先の幕末ONLYイベントに竜馬さんで参加されていた
ひとしさんのお誘いで参加することに(^―^)>

実は去年からこの御話は伺っていたので密かに
新撰組の衣装を買い揃えていたのですよ(笑
ダンダラの羽織は去年、京都新選組同好会の奈良副長に
特別注文して頂いた純壬生製の羽織。同好会の方達のものとおそろいですv

池田屋パレードの時に同好会の皆さんの勇姿に惚れてしまい、
「同じのが欲しいんです(0◆0;)」と、無茶を言ってしまいました。。。
が、そんな拙者の我侭にも親切に応じてくださり、「同好会の魂です」と
同好会の皆さんの新撰組への情熱と一緒に羽織を届けてくださいました。
それだけに思い入れもあり、特別な時にしか羽織れない代物ですので
大切に大切に桐箪笥に保管してました。なので今回が初御披露目ですv

週間天気予報ではずっと当日が雨ということでハラハラしていたのですが
前々日になって天気回復の予報と相成り、当日は快晴の小春日和!
ということで、朝AM9:30に伏見に入り京阪・中書島駅下車。
竜馬通り商店街は駅から徒歩5分程度です。
ひとしさんとAM10:00に竜馬館で待ち合わせをしてましたので
ゆっくり商店街の方へ歩いていくと途中で面白い物を発見♪
竜馬通り商店街周辺でのスタンプラリー。伏見夢通信とあり、
十一月十五日〜二十四日までの期間で、「とっくり」や「くんだり」など
渋い素敵なプレゼントが用意されていたので早速参加してきました(笑

因みにスタンプラリーのスタンプは以下八名の顔スタンプv
坂本竜馬、中岡慎太郎、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、
近藤勇、土方歳三、沖田総司v 自分用にも押して回りましたv

そんな具合に道草してたら約束の時間で、ひとしさんと合流。
今日もいつものように先輩隊士の東氏を誘っていたので、
ひとしさんに竜馬館に控え室を借りてもらい、
東氏に着替えを手伝ってもらって新撰組隊士に扮装♪
(因みに東氏は「着物大変やもん」ということで参加しませんでした…むぅ。
 が。まんざらでもなさそうだったので、来年は一緒に参加しようねv)

ひとしさんの着替えを待つ間、商店街を一足御先に散策。
下駄を履くのが初めてだったので感覚を掴もうと歩いていたのですが、
慣れないうちは怖かったです(マジ。足袋が滑って…あれで走るなんて無理!
それでも鼻緒ズレは思いのほか大丈夫でしたのでカッポラカッポラ
音を立てながら下駄歩きを楽しみました♪←一人で楽しんでました(恥

ある程度下駄の感覚も掴めて竜馬館の前に戻ると
ひとしさんが竜馬さんに変身してました。
そして、ひとしさんと一緒に談笑してらしたのが劇団「夢援隊」の方々。
そう伺って、もう一日中ドキドキしっぱなしでしたよ(焦
十五日に霊山の墓前祭りに参列された時に
ひとしさんがナンパしてきたということでした(笑

夢援隊といえば東京がメインな劇団だということで、
拙者も聞き知ってはいたのですが、まさかこんな機会に
役者さんと御一緒できるだなんて思いもしなくって(焦っ
つい先日まで神戸の方で「美しき狼たち 龍馬VS新撰組」の公演が
あったということで、チラシも頂いちゃいましたv

写真は左から夢援隊の団長河本由彦さん、団員さん、拙者、ひとしさん。
で、団長の河本さんが12月公開予定の「ラストサムライ」に
日本人通訳官の役で出演されているとのこと!CHECKですよv
頂いたチラシにはトム・クルーズさんと一緒に撮られた写真がv 羨ましっv

また、控え室の方で準備をしていた時に隣で着替えをされてた
大奈さんとも御話する機会がありましたv 商店街の応援歌
「ALIVE ROAD商店街」をつくられたシンガーソングライターさんで、
今日は沖田総司に扮してライブをするということだったんですが
めっちゃ美人な沖田さんでした(うっとりv プロマイドとか見せてもらって素敵でしたvvv
どうも何年か前に新撰組の映画を撮るということで大奈さんは
沖田役が予定されていたらしいのですが、急遽ぽしゃってしまったのだとか。
大奈さんの沖田さんだったらきっと美麗隊士揃いな映画になったでしょうね。

さてパレードですが、京阪・伏見桃山駅の前から伏見大手筋商店街、
納屋街商店街、竜馬通り商店街をブラスバンドを筆頭に練り歩きました。
拙者は刀を用意できなかったので扇子を差していったのですが、
ひとしさんが「新撰組が丸腰じゃだめだ」と差料を貸して下さいました。
これまた初体験で刀を腰にさしたのですが、、、重い。
加えて拙者には長刀で、不意に動くと鞘当しそうでハラハラもの。
でもやっぱり刀があるとビシッとしますね。いつか二刀揃えよっ(^―^)
(着物着るだけでも勉強大変だったのに…←帯の結び方とか。
 刀持つなら刀もまたしっかり勉強しなくちゃね!)

河本団長は竜馬に扮し、人力車に乗ってのパレードで、私はその前を
歩かせてもらいました。…というかチラシを配る仕事を手伝っていたら
列からどんどん遅れてしまって(笑 龍馬さんを先導する新撰組隊士って…(笑

竜馬通りを過ぎて十石船がはしる川を超えて公園前の広場にまで移動してから
ブラスバンドの演奏会だったのですが、その前に「夢援隊」の方々が
寸劇を披露してくださいましたvvv 竜馬さんに沖田さんが投げ飛ばされましたよっ!

そんな具合にパレードを楽しんだ後、伏見は拙者は初訪問の地だったので
早速史跡巡りにくりだしました。新撰組の格好のまま(笑
行くところ×2で「あv新撰組だv」と、沢山の人達と御話できて楽しかったです(^―^)
月桂冠の資料館を見て歩いていると手前に
「明治期の伏見の町屋復元しました 古美術・生活骨董 伏見」という
看板が出ていて、興味を引かれた拙者は東氏を引っ張って行ってみることに。

ところどころにある道案内の看板を頼りに行けば、
京阪の線路沿いの一角にありました。
玄関口で声を掛けると応対に出てくださった奥様が
中に招き入れてくださったので御邪魔してきました。

町屋に上がらせてくださるなんて思ってもいなかったので感動っ(0◆0;
御主人が骨董収集を趣味にされているということで、
三十年掛けて集められたという骨董品の数々が展示されてあり、
昔の町屋が再現されてあるふうでした。さりげなくおかれている
箪笥や棚などの殆どが当時のものといったものばかりで驚くばかり。

二階にも上がらせてもらったのですが、
鉄砲(国友鉄砲かな?)なんかも飾られてあって、
雰囲気に酔いながら撮影会をしてきました(笑
昔はガラスが貴重だったということで少し割れても継ぎはぎをして
使っていたということで、二階にはその継いだガラス窓もそのまま
残されてあって、今じゃそうそう見られないものも拝見してきました。

で、町屋の階段ですが、めちゃ急っ。んでもって狭いっ。人一人分の幅。
あんなの駆け降りたり上ったりできません!(慣れても怖いと思うよっ?
町屋でも色々あったでしょうが、あんな階段で戦闘とか無理です。
ましてや刀を振るなんて無理です。天井が凄く低いんです。
屋内戦では「突き」とはいうものの、体感して納得しました。
手を伸ばせば肘が曲がる状態で天井に手が届く程度です。

そんな屋内の構造を見て当時の感じを想像していましたら
外に出てらした御主人が戻られ、御茶を御馳走してくださいました。
当時の掘り炬燵を囲炉裏に改造された居間に招いてくださり、
一緒に居合わせた月桂冠の総務の方も一緒に御菓子まで頂いてきました。
拙者がこんな格好で出歩いていたからでしょうが、
幕末期に二軒茶屋(中村屋)で引き出物で出されたという香炉(?)を
出してきてくださり、手にとらせて見せてくださいました。
他にも平然と居間に飾られた焼き物なんかも当時のものだということで
当たり前に置かれているだけにタイムスリップしたような感じでした(感動っ。

因みにこちらではシー・ズーを二匹飼われていて、その名も小太郎と二郎が
御主人と談笑中にまわりをテケテケ駆け回ってまして愛くるしかったですv
御茶と御菓子を御馳走になって、こちらの「伏見」のポストカードまで頂いて
再び史跡巡り再開。月桂冠でもらった伏見のMAPを片手に、
まずは伏見奉行所跡へ。こちらには石垣が住宅地の下に残っています。

先の京都国立博物館で催された新撰組特別陳列展での講演会で
教えて頂いた鳥羽伏見の戦いの史料の絵に残されていた伏見奉行所の
松の木がまだ残っていないだろうかと見に行きまいた。
ありましたよっ松。が、位置的にどうなんだろ?って感じでよくわかりませんでした。
が、碑の隣に説明書きがあったのですが奉行所って結構広かったんですね。
歩いてみてかなりの広さだったので驚きました。。。

続いて鳥羽伏見の戦いの時の弾痕が格子に残る魚三楼へ。
シュバッと魂が掠っていった跡が格子にくっきり残っていました。
お店の暖簾が掛けられた入り口の右脇に鳥羽伏見の戦いの
説明書きもあるので、弾痕が一層リアルに感じられます。

そのまま北上してパレードで通った伏見桃山駅の方まで出て、
記念にvということで東氏と一緒にプリクラ撮って行きました(笑
ゲームセンターに仮装のまま入っていったので皆に振り向かれ
ちょいと恥かしかったです…ぼ―――ん。( ̄▼ ̄)ははは(乾笑

で、なんだかんだでもう夕方四時半過ぎ。
閉館ギリギリに寺田屋に入ってきました。
…てか一番最初に行くべきですよね(笑

寺田屋は竜馬通り商店街のすぐ横の通り。
で、見学料金¥400で、窓口でパンフレットと参観券を頂くのですが
参観券が粋v 土佐圏銀札の印刷紙で金五両御銀方とありました(笑
寺田屋といえば竜馬さんで有名ですが寺田屋騒動は御存知でしょうか?

文久二年(1862)四月二十三日。島津久光が一千の薩摩藩兵を率いて
上京したことに乗じて、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して、
相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けし、
島津久光に詔りを賜り幕府を誅伐するという過激な計画を実行しようと
急進派の薩摩藩士を含む尊攘派志士が寺田屋に集まっていました。

そこに、公家方よりの通報を聞いた島津久光が計画を中止させるために
藩の鎮撫使を派遣し、説得して計画を中止させるよう命じました。
が、鎮撫使側は上意討ちの許可が出ていたので、藩邸への同行を拒否した
急進派藩士有馬新七以下八名をその場で斬殺せんと及んだ為に乱闘となり、
鎮撫使側も一名死亡、多数の負傷者を出し、急進派側の藩士も六名が死亡、
二名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切 腹)を出し、四月二十七日には、
一名が自刀して果て、これを加えて九名の死者を数えることになりました。
これが寺田屋騒動。竜馬襲撃の寺田屋事件はこの四年後。

で、小説などで有名なお竜さんが竜馬の危機に風呂から素っ裸で
二階に駆け上がり「竜馬っ、捕り方!」と継げた寺田屋事件。
…なんちゅう説明じゃ。。。↑(ーдー;)

薩長同盟を成立させた二日後。
慶応二年(1866年)一月二十三日深夜。
史書によれば、竜馬到着時刻は深夜零時頃で、
風呂に入った後、竜馬は二階の奥の間で
三吉と酒を飲みながら、話しをしていたといいます。
伏見奉行所の捕吏は寺田屋周辺を固めて、
女将のお登勢を門口に呼び出していました。
物陰に潜み宿を取り巻く捕吏の気配に気づいたのは、
階下裏手の風呂で入浴していたお竜で、
彼女は素っ裸のまま裏手の階段を駆け上がり
竜馬に急を告げたのでした。…びっくりしたろうなぁ(二重で。

で、そのお竜さんの御風呂と階段がこちら→
実際に建物の構造を見て実感。今、御風呂から表は
伺えないのですが、御風呂を出たらすぐ左手が階段。
これは裏手の階段で人が一人半くらいの幅なんですが、
寺田屋の表の階段は先程の町屋の階段とは違って
人が二人すれ違えるくらい幅のある階段。
きっと旅館だから食事とか運んだりするのに
人とすれ違えるくらいのゆとりを持たせて
創ってあるんでしょうね。踏み板の幅も広かったです。

二階の竜馬さんが使っていたという部屋には
竜馬さんの絵が描かれた掛け軸が掛けられていました。
寺田屋の女将お登勢が嫌がる竜馬を奨めて
街の画家に描かせたものだということです。
京都円山公園の銅像のモデルがこれだそうですよ。

そんなんで閉館時間いっぱいまで寺田屋検分をして、
それから正面の河原に降りて行って撮影会(笑
柳が立ち並ぶ川で雰囲気を楽しみました。
時間があれば十石舟にも乗りたかったのですが
往復小一時間かかるというので次回のお楽しみとしました。
橋の上から何度か写真を撮っていたら舟からお客さん達が
「あ、新撰組や〜!」「うお〜い!新撰組〜!」と
手を振ってくれたりして楽しかったです(^▼^)サービス×2v

日中は小春日和も暑すぎるくらいでしたが、←冬物の羽織はおっていたので。
夕暮れにもなると冷え込み始め、秋を感じさせられました。
めいいっぱい遊び倒してPM5:00。竜馬館で着替えを済ませて
(着る時には時間かかったけど、脱ぐのは早かったなぁ…名残惜しかった(笑)
御世話になった竜馬館の方達と商店街の方々とひとしさんに御挨拶。
そして帰路に…はつかず、もうひと歩き!(笑 鳥羽街道付近を散策。

とはいっても、もうPM5:30を回れば真っ暗で何処を歩いているのやら…
東氏に先導してもらう形で歩いていたらいつの間にやら迷子状態(コラ。
それでも一時間半ほどで中書島まで戻って帰路につきました。
一日中歩きっぱなしで、さすがにくたびれました。。。が、
今回も沢山素敵な出会いがあったので充実した一日でしたv


平成十五年 十二月七日

さて今回は『新撰誠覇』の大阪オフ会に参加しました(^ヮ^v
当初は一人旅の楽しさに酔っていましたが、最近はオフ会の楽しさに開眼(笑
エスコート役は誠覇の管理人、ぺー輔さん。
そしてそら太さん、雪乃さん、ひなきさん、拙者の五人で行ってきました。
ぺー輔さんから伺うところ、今回のオフ会コンセプトは誠覇らしく(?)
『個人ではなかなか行かないところ』巡りとのこと。ドキドキですv
今回は移動時間短縮の為に電車移動が主ということなので
大阪市内「地下鉄・バスの一日乗車券¥850」を利用(^―^)

AM11:15。適塾前にて皆さんと合流。
早速、洪庵先生の銅像前で記念撮影。
前回もそら太さんと訪ねた適塾でしたが、再参観、¥250。
今回はぺー輔さんの解説付きですごく勉強になりました!
拙者はこの時もまた大鳥圭介が適塾生だったことをど忘れていて
「どうして大鳥さん関係のものが〜(以下略)」とボケボケ。
…どうしても拙者は大鳥さんを適塾生にしたくないらしい(謎。

三十分ほど適塾を楽しみ、まずは腹ごしらえをと近くのお店で昼食タイム。
ペー輔さんより御手製のオフ会のしおりを頂き、
旅程の説明を受けて、改めて皆で自己紹介(^―^)丼をつつきつつ
新撰組・幕末話に花を咲かせ、一息ついたところで巡察再開!

今回はぺー輔さんの完全ナビ。…なので振り返ってみれば
何処をどう歩いたのか…さっぱり(゚ヮ゚;)レポで説明できない…う〜(泣
なので以下は場所の名前だけで、行き方は省略して綴ります。
詳しくは別箇史跡地図など利用して調べましょう。。。

というわけで梅田まで移動してPM1:00、本伝寺到着。
谷三兄弟のお墓参りです。お寺の周辺がこれまた如何わしい場所で
情緒とかの欠片もないのでご注意を(' ヮ ';)
お墓は墓地の中程にあり谷三十郎、万太郎、昌武の名前は墓碑に
ちゃんと名前を確認することが出来ます。

PM1:30。本伝寺を後に、電車移動して南森町駅下車。
次に向かったのは竜海寺。緒方洪庵と、その先生、それに
大村益次郎の大腿骨埋葬の地です。駅から徒歩で10分程度。
門前に「緒方洪庵墓所」の碑がたっています。
右側が洪庵緒方先生墓、左側が奥様のお墓です。→
ここでペー輔さんより「墓石に姓と名が逆転して刻まれるのは何故か」
などの講義を受け、それぞれに手を合わせてきました。

PM2:25。玉造駅へ電車移動。次に向かったのは心眼寺。
京都見廻り組の桂早之助、渡邉吉太郎の墓所です。
竜馬ファン因縁の地ですね。。。どちらも今では無縁仏となっていて、
墓石の山から両者を見つけるのはちょいと骨が折れますが、
ペー輔さんがすでに桂さんのお墓(左手下段)は発見されていたので、
渡邉さんのお墓を探すことしばし。。。
拙者「あれではっ!?」と左手上段に「渡邉」の姓が刻まれた墓石を発見。
皆して頑張って手を合わせてきました。
で、帰り際気になったのは心眼寺の紋。六門銭だったんです。
何かあるのかな?

PM3:00。電車で四天王寺前夕陽丘駅へ移動して、四天王寺へ。
桜田門外の変の首謀者、高橋多一郎、庄左衛門父子のお墓がある
というので連れて行ってもらいました。桜田門外の変は御存知、
今の警視庁前での事件ですが、彼らは逃亡の末ここで切腹したとのこと。
そんな彼らのお墓はどんなものかとお参りしてみれば、、、
墓碑銘に一同引きました。「怨霊消滅」…(゚―゚)。
仏教用語か何かあるのかしら??
墓石は新しくて、向かって右側面に
両者の名前がしっかり刻まれています。

次に一心寺へ。こちらは拙者何度も訪ねていたのに
気付かずスルーしてました…、高橋泥舟の筆による
「東軍殉難者慰霊碑」が本堂正面左手側にあります!
そして本堂正面塀の裏手にあります
会津藩士の御墓参りをしてきました。

そうそう。以前の巡察でも触れた一心寺で有名な「酒封じ祈願」。
家康四天王の本多忠勝の第二子で、酒を過ごして大阪夏の陣において
戦没したという本多忠朝。彼が自己反省から
「酒で身をあやまるものを助けん」と遺言したとかで禁酒を願う
参拝者が多いということなのですが、この日目に付いたのは
絵馬ならぬ杓文字。。。杓文字に禁酒祈願が願掛けされていたのですが
これってどういう意味なんでしょう。。。(゚ヮ゚;)

色々お寺としてはちょっと風変わりな一心寺を後に、さらに南下して
次に訪ねたのは統国寺。門前にあるインターホンでお寺の方にお参りの
許可を頂き、応対があると同時に自動で開く門…。ハイテクです。
入ってすぐ左手脇にベルリンの壁が二枚あり、「どうして??」と
一同首を傾げつつ墓地へ。(今日は不思議だらけだ…(゚ヮ゚)ほえ〜。)

こちらには藤井藍田と、その師匠の広瀬旭荘のお墓があります。
藤井藍田とは慶応元年五月二十六日に新撰組に捕らわれて
新撰組の大阪の屯所とされていた万福寺の牢に入れられて
拷問の末、牢死したといわれている人物。。。町人勤王家です。

さて、日も暮れてきたところで本日最後の阿倍野墓地へ。
五代友厚のお墓と長州藩士の墓地へお参りに行きました。
五代友厚とは高杉晋作とともに上海へ密航したり、生麦事件では
グラバーを通じて和平工作などを行ったという薩摩藩士。
初代大阪商工会議所会頭で、今のマイドームおおさかの建物の
正面左脇に立派な銅像も立ってます。

そして長州藩士の墓碑は全部で48。禁門の変で亡くなった46名と
別件で亡くなった2名のお墓ということで、
ちょっとせつなかったのはお墓にランク付けがされていたこと。
身分によって墓石の高さが異なっているんです。
それを教えてもらって時代を感じました。。。

そんなわけで今回の大阪巡察も予定通りに無事終了!
その後は天王寺で飲み会となり、拙者下戸ながらも御酒に挑戦。
皆でもりもり食べながらペー輔さんの歴史考察(他言厳禁話)
などで盛り上がりました!今回もとっても楽しかったです!



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