巡察

平成十五年 五月九日〜十一日
平成十五年 五月十一日 歳三忌
五月十一日。今年の歳三忌は図らずしも土方さんの御命日と
日付が同じ日に行われるということで。拙者も一ヶ月前から
歳三忌に参加すべく用意を整えておりました。今回は泊まりです!
因みに今回は先輩隊士の東氏と一緒に二人で巡察でございます。

ということで、九日。仕事をシフトにして繰り上げ、PM9:40夜行バスに乗り込み東京へ!
仕事後でヘレヘレ状態だったのですが歳さんの為ならどうってことないです(ぱたり。
明けて十日AM6:30新宿西口着。ケチって格安の夜行バスにしたものだから狭い座席で
無理な姿勢で長時間寝こけていた為、体の節々が痛いの何の。。。くぅぅ歳さんの為なら〜(ぐきっ。

天気は良好。五月初旬で冷え込むかと思いきや、すでに陽気な日差し。
早速、新宿から京王線で西調布まで移動です。朝一から史跡巡り開始!
今回は泊まりということで、この十日は一日かけて史跡巡りする計画。
会社で短い休み時間に史跡を調べあげて史跡巡りコースを練り練り。。。
歳さんの為なら〜といいながら、この日は近藤さん三昧です(笑

新宿から京王線で西調布駅まで20分、¥230。
西調布駅から地図を頼りに、まずは若宮八幡神社参拝。
甲陽鎮撫隊が甲府に向けて甲州街道を行軍途中、
上石原で遥か氏神様の上石原若宮八幡神社に向って
勝利祈願をしたといいます。
ということで、我等も近藤さんに倣い、
今回の旅の無事を祈って来ました。

AM7:30。朝一番の神社参拝というのは気分のいいものですねv
拍手を打つ音がパーンと朝の静かな空気に響き渡って気持ちいい〜(^―^)
参拝ついでに境内脇の広場にあった切り株に腰掛けて朝食隊務(TIME)。
朝食をとりつつ鳩と戯れながら東氏に今回の巡察予定を説明。
一日カツカツに巡察予定を詰め込んだ予定表を前に
改めて「頑張りましょう」と決意する二人…
(半分あきれる東氏にやる気満々の拙者でした。)

朝食を済ませて神社を後にし、次に向ったのは西光寺
もと来た道を駅まで戻り北へ。寺の正門を見つけるのに
ぐるっと迂回したので駅から徒歩10分弱かかりました。。。
甲陽鎮撫隊が若宮八幡神社に勝戦祈願の後
こちらの境内で休息したそうで。

で、西光寺正面左手側に、でで―んっとあるのが近藤勇の坐像。
これは調布市「近藤勇と新撰組の会」が没後130年を記念して
建立したというものだそうです。
また、坐像の左側には甲陽鎮撫隊を見送った宿場内の人々の
安全を願って秋葉権現を祀る常夜燈が、
右側には西南戦争に従軍した地元出身の人々の
招魂碑が建立されてあります。

で、坐像右側にノート箱があったのですが、その中に
「近藤勇と新撰組の会」の会報をどっさり見つけ、
人目がないのをいいことに、東氏と一緒に漁れるだけ漁ってきました。
中には昭和18年取り壊し前の近藤勇生家(宮川家)見取り図
載せられていたりして、ほっくりしながら西光寺を後にしました。

そして次に向うは竜源寺。ということでここからバス移動です。
今回の巡察の計画作りに協力いただいた方々から助言頂いて、
竜源寺へは三鷹駅から小田急ばすで行った方が良いと
伺っていたのですが、上石原から強引に行くことになります(悩

この周辺のバスが小田急バスということがわかったのでネットで
バス経路図やら時刻表やら、周辺地図やらを調べ上げて
行きました。(毎回、史跡巡り用に資料を作っていくので自作ガイドBOOK
(しおり程度です)が頼り←これで間違ってたら迷子決定です。。。)

旧甲州街道沿いにあるバス停ではなく、駅入口の信号を北に入った
上石原バス亭で武蔵境駅南口行き(系統番号:境91)に乗り込み
大沢で下車。全線均一¥210、所要時間11分。
降りてすぐ右手側に消防署があって、隊員さん達が外にいらしたので
すかさず道を尋ねました。(←自分の方う感覚に自信がない時は
すぐに人に尋ねたほうが無難です) 大沢の交差点、人見街道を
西へ道なりにずんずか歩きます。戻る時うんざりするぐらいずっと下り坂。

下り坂がほどなく終わったあたり、バス停から15分ほど歩いたところで
川に差し掛かりました。橋の上から臨んでみれば、
さして大きくない野川(←側の名前でした)だったのですが、
いた!いましたよ!「針っ、糸っ、竿っ!!」 鯉発見!(笑
よほど鯉に縁があるのでしょうか? とても雰囲気の良い小川で
思わず降りて行って水遊びしたくなるような処でした(^―^)
巡察さえなければ遊んでいたでしょう。
近藤さんが小さい頃にもこの川あったのかな?

東氏としばしこの風景に見とれてから竜源寺へ。
野川から徒歩5分弱です。AM9:05。
正面左手側に近藤さんの胸像と天然理心流の碑がありました。
東氏と記念撮影をして「近藤さん、髷が大たぶさだね〜」と
言っていると、犬の散歩中で通りかかったおじさんに
「何のガイドブックですか?」と話し掛けられました。

拙者が手にしているしおりのことを尋ねられたので照れながら
「自分で作ってきたんですよ〜」なんて言って見せながらしばし談笑。
おじさんも近藤勇のFANだということで、拙者達が大阪から近藤勇を
訪ねて来たということをしきりに感心してくださいました。
『実は歳さんのついでなんです…( ̄▼ ̄;( ̄▼ ̄)』とは
申し訳なくて口に出来ませんでした。。。(笑

さて、竜源寺。宮川家の菩提寺です。また、近藤さんが
牛込試衛館道場から多摩へ出稽古に来た際に使用したとされる
愛刀が今もほぞんされているということなのですが、
「見れないかな〜?」と期待しつつも、お寺の人が見当たらなかったので
「残念だ…。」と肩を落としつつ本堂裏手の墓地へ。

竹薮を抜ければ建て看板があったのですぐ分かります。
近藤さんと勇の娘婿・勇五郎(勇の長兄・音五郎の次男)、
勇五郎の子・久太郎、新吉のお墓です。
また、隣には近藤さんが辞世の句を残した
七語絶句二首が刻まれた碑がありました。

こちら、板橋の刑場で斬首された勇の遺骸を
勇五郎や門人達が夜陰に紛れて運び出して
この墓所に埋葬したとされてますが…
どうなんでしょうね?
とにかく「今度の大河ドラマは『新撰組!』ですよ」と
報告しつつ手を合わせてきました。

竜源寺を後にして人見街道をもう少し西に進めば
野川公園正門前に近藤勇の生家、
武州多摩郡上石原村の豪農であった宮川家の
旧家跡が。とはいっても今は近藤勇を祀った
小さな祠と産湯の井戸があるだけで、
敷地の一角が残るのみ。

西光寺で頂戴してきた会報の宮川家見取図と
照らし合わせてみれば、ここは正門の一角で
井戸は敷地の南東隅にあったものだと分かりました。

※因みに旧宮川家屋敷を忠実に細密に復元した模型が
調布市郷士博物館に展示されているそうです。

そして次に、生家跡を背にして人見街道を挟んだ
斜向かいにある近藤道場、撥雲館へ。

近藤さんには男子がなく、江戸の留守居宅を守れないということで、
勇の長兄・音五郎の次男である勇五郎を勇の一粒種
瓊子の婿養子として天然理心流宗家も勇五郎が継承。
維新後、音五郎から分け与えられた屋敷内の納屋を
明治9年から道場に改築したという、これが撥雲館。
塀越しに窺う程度しか出来ないのは残念ですね。

さて、次に歩を進めるべく、ひとまずもと来た坂をうんざりしながら上り、
大沢のバス停まで戻って調布駅北口ゆき(系統番号:鷹51)で
調布北口バス亭下車。所要時間15分。
調布駅より京王線で府中まで急行で8分、¥150。
向うは大国魂神社です。AM10:40。

大国魂神社といえばっ、闇夜祭
つい五月五日に行われたばかりのお祭ということで
祭りに参加できなかった悔しさ割増だったのですが、
府中駅の改札を出たら駅構内に闇夜祭の
写真パネル展が催されていたので覗いてきましたv

闇夜祭といえば、もう私は「歳さん〜vvv(By.燃えよ剣)」
しかないのですが、やはり祭っていいですね!
御神輿とか大きな太鼓とか!見てるだけでワクワクしました。
やはり一度は参加せねばなるまい(^―^)」

そんな具合に祭の余韻に浸って駅を出れば、
神社まで続く欅並木
五月にしては暑くなってきた陽の光を浴びて
明るく映える緑が眩しかったです。
それに、路に落ちる木漏れ日の美しいことv
車がぶーぶー通るのが残念でした。

「すごいな―v」と上を見上げながら歩いていくと
源頼義さん発見。「どうしてこんな所に?」と
東氏と首を傾げていると、この欅並木は
源頼義、義家父子が奥州征伐の途中、
大国魂神社に戦勝祈願をして、戦に勝って
凱旋の時、御礼詣りに欅千本を植えたのがはじまりだとか。

並木道を抜ければ大きな鳥居が迎えてくれます。
万延元年(1860)九月三十日に武蔵府中六社宮において
武術上達を祈願した奉額の行事を催し、
天然理心流宗家を継いだ近藤周助邦武の指導で
近藤勇や土方歳三らが演舞を行ったといいます。

因みにこの六社宮という呼び方は左右の相殿に
国内著名の神社六社を合祀したので六所宮と
称されるのだそうですよ。また、大化の改新の折
祭典の便宜上、武蔵の国中の神社を一箇所に集めて
御祀りをした為に武蔵総社とも言われるようになったとか。

で、その奉納された天然理心流の額なんですが、
本田覚庵の筆で、周辺を竜の彫刻で飾った見事なものだったとか。
だけど慶応四年三月、甲陽鎮撫隊掃討の官軍がここを通過した時、
新撰組と天然理心流門人の関係詮索を恐れて、額は外されて
隠匿された為に竜の彫り物だけが残ったと伝えられているそうで…
その後の額の所在は知られてないらしいです。どこいっちゃったんだろ?

また奉額奉納の演舞の一年後、元治元年八月二十七日、
近藤周助から宗家跡目を継ぐ四代目襲名披露の野試合が
行われたという武蔵総社六社宮の東側広場とは、
今の東京競馬場付近ということになりますね(^―^)

さて次に、これまた『燃えよ剣』の歳さんを追って(分倍河原奇襲作戦)
分倍河原古戦場碑を探しに行く予定にしていたのですが
ここで予定変更して、府中駅で調達したチラシ
「京王線+都営線、電車に乗って「江戸」に行こう!」に
府中市郷士の森博物館(分倍河原駅より徒歩20分)とあったので、
分倍河原駅まで歩くつもりでいたし「ちょうどいいよねv」と
東氏と示し合わせて博物館までここから歩いていくことにしました。

AM10:55。神社を後にして甲州街道を西にてくてく。
途中、府中高札場や番場宿の碑などの史跡を目にし、
高安寺というお寺も立ち寄ってきました。こちらは足利尊氏が
戦に倒れた武士たちの冥福を祈って全国に建てさせた
「安国利生」の寺ということで、立派な山門に感嘆しました。

元弘三年には新田義貞が分倍河原の合戦に陣地を構えたのをはじめ、
その後も足利幕府の関東管領、鎌倉公方が折りあるごとに
ここへ陣所を構えたことが記録に残されているそうです。

また義経・弁慶に関する言い伝えがあったり、
正面左手奥の墓地内には近藤勇の墓があるという話もあり…
とあるサイトから情報を入手したのですが、どうなんですか?

しかし後で調べて驚いたのはこの高安寺と竜源寺の関係。
竜源寺の過去帳によれば、正保元年(1644)に開創した
家山東伝(または明伝)は府中高安寺第四世とのこと。
なにやら改めて繋がるものを発見して驚いてます。

高安寺を後にして甲州街道を南に折れて分倍河原駅まで
出て、そこからかえで通りをひたすら南下すること20分。
「…?博物館らしい建物なんてないよねぇ?」
延々と続く一本道。いけどもいけどもそれらしいものは見つからず、
まだまだ歩くこと20分。やっとチラシの地図にあった分岐路まで出て、
「これチラシ似非情報やん!」「20分って大阪人の足でもアカンやん!
とぷりぷり怒りながら、もう10分歩いてやっと博物館に辿り着きました。

が、50分歩かされたものの博物館入館料が¥100だったのに
気をよくして広い公園内をウキウキしながら散策しました(^―^)

AM12:20。早速、博物館を見学。江戸期のスペースでは
甲州街道府中宿の街並模型や生活用品なども展示されてあり、
「江戸時代 街道クロスワードパズル」なんてゲームもあったので
問題用紙と解答を貰ってきました(^―^)それに、府中付近の
明治十五年(1882)の古地図と現在の地図も貰ってきました。
多摩川ってえらく形がかわっていますね…驚いた。

博物館を出れば広い敷地内に江戸時代の 農家や商家などを忠実に再現した建物が 立ち並んでおり、上がり込んで見学してきました。

ぐるっと見て回って、流石に足も疲れたし御腹も減ったし、という具合だったので 、ちょっと一休みして御団子食べてきました。飛騨高山直送、ハケ上(うえ)だんごv 天気も良かったので、公園に持ち込んで食べてきました。美味しかった〜v

江戸期の長屋門も見学して、一通り見て回ってから
博物館まで戻ると、博物館前にアストロカーが停まっていて
天体観測「太陽観望会」が実施されていたので覗いてきました。
拙者はすっかり理科で習った太陽の性質は忘れ去っていたので
新鮮な気持ちで講義を伺ってきました(御馬鹿。
色んな質問に丁寧に回答して下さって、御兄さん親切でした(^―^)

PM1:50博物館を後にして、当初の巡察に戻るべく
目指すは分倍河原古戦場。中河原の駅に向って
住宅密集地内を彷徨い歩き、新田川分梅公園を
横切り中央自動車道を超えてずんずん歩いていけば…
PM2:30。途中で見つけた道標の看板に唖然。
「古戦場碑…通り越しちゃった?」「みたいだね…?」
歩くのに必死になっていて、もう戻る体力もなかったので
諦めて中河原駅まで歩ききり(よく歩いたよまったく…(疲)
京王線で高幡不動まで移動。¥130、10分弱。

一年ぶりの高幡不動駅。降り立ってびっくり。
去年はなかった中華街を思わせるでっかい商店街の門。
「また来年来たら変わるんだろうか?」と話しながら、
去年から示し合わせていたとおり、遅くなった昼食をとるべく
めし処池田屋に直行!…と、入り口手前で壁一面に張られた
幕末の傑物達の顔写真に驚いて、しばし見学してから
改めて「たのもう!」と訪問(笑 奥の六人垳の席に通され、
拙者は藤堂平助丼、東氏は沖田総司丼を注文。
店内の新撰組GOODSの数々に目を輝かせながら頂きましたv
空きっ腹でも収まりきらないボリュームに驚きました。御馳走様です。

PM3:30。エネルギー補充して、再び石田寺へ向けててくてく。
浅川沿いを「去年も歩いたね」「来年もまた歩くよね」と
歳さんに想いを馳せながら、浅川の河原に降りて石投げして
遊んだりしながら行きました。
因みに拙者、石投げできないこと判明(べそ。

PM4:05。明日はゆっくり会えないだろうと思い、
一日早く歳さんのお墓参りをしてきました。
大河ドラマの報告もありましたが、石田の地名存続の為に
頑張った署名運動完遂の報告でいっぱい喋ってきました。

すでに綺麗に顕花されてあって、
汚れていたらお掃除していこうと
思っていったものの、今回もその必要は
ありませんでした。流石ですね。
羨ましいくらい綺麗にされてましたよv

一通り報告と感傷に浸って(笑、
去年訪ねれなかったとうかん森
行ってきました。聞き知ってはいたものの
本当に森の一角だけしかないんですね。

そのまま北上して例の「石田大橋」も見学してきました。
石田の地名がなくなっても橋にその名を残したいという
気持ちで名付けられた橋。名前募集の時拙者も応募しましたよ(笑

そんなんで、いい加減歩き疲れたのもあり、
今回は日野へはバスで出ようと思ったのですが、
万願寺から日野へのバスが…ない( ̄■ ̄;)
本数が少なくて…。待っているのもシャクだったので
結局今回も歩きました。「昔の人は足で移動してたのさっ」

もうこの時点で東氏は「ふざけんな〜」と
御機嫌超〜斜めだったのですが、(御免ねっ
宥めながら歩くこと一時間。PM5:30。
日も傾いてきたところで宝泉禅寺訪問。源さんのお墓参りです。

初めて源さんのお墓参りをしたのですが、すごい立派。
とても綺麗でしたし。ノート箱があったので拝見してきましたら、
井上家のお嬢様、愛美さんのノートがありましたので
拙者も一筆ご挨拶を綴らせて頂きました。
子孫の方がご先祖様を誇りに思ってらっしゃる姿勢が素敵でした。
ふと我が身を考えれば、ご先祖様って曾祖父の代までしか分かりませんよ。
自分にどんなご先祖様がいらしたのか知りたいものです。
家計図なんてないからなぁ…どうやったら調べられるんだろ?
せめて源氏か平氏かどちらの流れを汲むのか知りたいな(笑

そうしてノートに綴ってましたら、後から御二人御嬢さん方が
源さんのお墓参りにやってきまして、聞けばやはり新撰組同士
ということでしたのでしばし源さんを挟んで談笑しました。
御二人は千葉と新宿から来たということでしたが、やはり我々が
関西から遠出してきたと聞くと驚かれてました。FAN魂ですね(笑

源さんに別れを告げて次に向ったのは大昌寺
PM5:50。こちらは佐藤彦五郎の菩提寺ということでしたので
お墓参りを、と思ったのですが、
探せどもどれがそうなのか分からない( ̄▼ ̄;)
東氏と二人して日が沈む直前まで墓地を徘徊しましたが
結局分からず。ですが「玉川居 祐翁の墓」という
立て札があったのでお参りしました。
佐藤道場で天然理心流、近藤周助に剣を学び、
文久三年、幕府の浪士隊に歳さんたちと一緒に参加するも
帰郷して日野農兵隊に加わって武州一揆の打ち払いや
八王子の浪士狩り、甲陽鎮撫隊で活躍したとのこと。
晩年は俳句を興じたということですので
歳さんと一緒に詠んだことがあったかもしれませんね?

さて、とっぷり日も暮れて夕食時となりましたので、
足を運んだ先は日野館
言わずと知れた佐藤道場跡です。PM6:20。
通された正面座敷に東氏と二人陣取って、
疲れた足を投げ出しました。
せいろとそばの実アイスを注文して、
東氏はそのまま潰れていたのですが、
拙者は目ざとく小さな本棚に新撰組本が
ずらっと納められているのを発見し、
そそくさと席まで持ち込んで、そばの待ち時間中
ぱらぱら読ませて頂きました。…したらしっかり大昌寺の
彦五郎さんのお墓の位置書いてありましたよ。無念。

最後に出してくださった蕎麦湯も美味しく頂いて、本日の巡察は終了。
八王子にとった宿に入り、東氏と二人、今日の感想談義と
明日の計画を練ってAM2:00就寝。疲れてたものだから泥眠しました(笑

2003.5.11⇒


平成十五年 六月二十一日〜二十二日
平成十五年 六月二十二日 総司忌
今年も総司忌に参加してきました。
前日の二十一日夜、一人夜行バスに乗り込んで、いざ東京へ。
丁度この時期は梅雨の最中で、ここ一週間も連日雨続きで
総司忌当日の天気が心配されたのですが。。。
天気予報では曇り。雨さえ降らなければOKさっと
弱気に携帯折畳雨傘を鞄に詰め込んで行きました。

が、明けて二十二日。AM6:30過ぎに新宿へ無事到着してみれば
目も細めるくらいの晴天快晴っ(0◆0)傘が荷物になってしまいました。。。
しかし梅雨時期にこれはしてやったりと思い直し、早速今回も巡察開始です。

まずは西武新宿線の新宿駅に向ってそこから沼袋駅まで。
今回、多忙続きで事前に巡察経路の下調べが十分に出来ず、
前日の昼に資料をひっくりかえして急遽仕立て上げた計画。。。
向う先は貞源寺。片手百人斬りの伝説を持つ伊庭八郎さんのお墓参りです。

伊庭八郎さんといえば遊撃隊
慶応二年(1866)新設の遊撃隊に参加して、
鳥羽伏見の戦いにも参戦して奮戦するも、
この時胸部に甲冑の上から銃弾を受け負傷。。。
しかし奇跡的な軽症で助かったといいます。
その後、戦に敗れた幕軍と共に海路江戸へ戻りましたが、
同僚、人見勝太郎らと共に江戸を脱走し上総に逃れ、
兵を率いて船で相模国真鶴に上陸した新生遊撃隊は、小田原から
熱海・韮山・三島・御殿場・甲府・沼津・小田原と転戦。

一度は箱根の関門を占拠して小田原藩と同盟を結ぶも、
小田原藩が新政府軍を恐れて同盟を破棄した為、湯本で再戦。
この時、八郎は小田原藩のどっちつかずの態度に立腹。
「反復再三、怯惰千万、堂々たる十二万石中、復一人の男児なきか」
そう痰呵をきって、小田原を去ったのだとか。

この箱根山崎の戦闘中、八郎は湯本三枚橋で左手に重傷を受けて敗退。
しかし三枚橋で敵に遭遇した時、左手を失いながらも
群がる敵を一蹴させ勇名を馳せました。これが片手百人斬りの伝説

「伊庭の小天狗」とも称された文武両道の八郎さん。
そんな彼は「清秀なるなかに和気ありて一個の美丈夫なり」、
「ごく優しい美男子で…」と当時の人が証言を残してますので
美剣士だったようですねv まだまだ拙者は伊庭さんについては
不勉強なのですが美剣士と聞いては勉強せずにいられません(笑

左手の重傷で戦線を離脱せざるを得なかったものの、
後に沼津から幕府艦隊で榎本武揚とともに箱館を目指し
松前に駐屯中の遊撃隊に合流。
函館戦争において新政府軍と各地で戦い、
ついには木古内の戦いで肩と腹に銃創をこうむり陣没。

五月十一日、箱館総攻撃にさらされて
陸軍歴戦の土方歳三が戦死。
海軍も破れ、旧幕軍の敗色が決定的となり
恭順か自決かの選択を迫られるのみとなった箱館戦争終局間際。
一説には榎本自らが病室の八郎を訪ね、榎本が薦めたモルヒネを
完爾と笑って飲み乾して眠るように息を引き取ったといいます。
享年二十六歳。遺体は五稜郭内に土方歳三の遺体の側に埋められたそうです。。。

で、お墓参り。沼袋の駅からは貞源寺のHPから入手したMAPを頼りに
駅から徒歩でひょこひょこ15分程度。住宅内を縫うように行く為、
しっかり迷子になりました(笑 それでもなんとか辿り着き、
AM7:30。朝一の訪問でしたが門が開いてましたので御邪魔してきました。
入ってお釈迦様に挨拶の後、墓地は本堂のすぐ裏手にあったので
伊庭さんのお墓を探してうろうろ。…うろうろ…。。。…(ーー;)見つからない。

これはマイッタなぁ…と思い、お寺の方に伺うことに。
朝早くから申し訳ありませんと訪ねると御婆さんが迎えてくれました。
伊庭さんのお墓参りがしたいのですが、と伺えば大阪から朝一に
訪ねたことを喜んでくれて、お墓を案内してくださった上に
御線香まで用意してくださって。
自分で用意してくる余裕がなかったことに恥じつつ
お線香をあげさせていただきました。前日にも何方かお参りされた様で
顕花されてありました。伊庭さんのお墓は直接の繋がりではないものの
御弟子さん達に囲まれてあったので、とても幸せそうなものでした。
御天気が良かったせいもあるかもしれませんがv しばし手を合わせて
伊庭さんに語らっていると、そこに一匹のが。
←虫(特に刺す虫)嫌いなので
驚きついでにひっくり返りそうになったのですが(笑
蜂になって八郎さんが迎えてくれたようです(^_^)

ゆっくりお墓参りさせてもらった後、お礼を言いに引き返せば
御住職の御内儀が御茶と茶菓をご馳走してくださいました。
そして一服ついでに色々な御話を聞かせていただきました。
拙者は貞源寺のHPを窺って伊庭さんのお墓参りに
来ることが出来たのですが、HPはつい先月あたりから
開設されたものだということで、すごくタイミングの良いものでした。

そしてお寺で行われた御能の御話を伺ったのですが、
なんと敦盛(あつもり)を三人で演じられたというのです。
なんとも新しい試みだということで今度の秋には實盛(さねもり)を
演じられるとのことです。本堂の仮設舞台で演じるということで
写真も頂いたのですが、凄くアットホームな感じがしました(^―^)
それもそのはず。全ては「御縁」で集られた方々だというのです。
「御縁」の御話はとても新鮮に感じられました。めぐり合わせというものの
素敵な幸運を伺えたのです。こうして拙者が御話を伺えたのも御縁。
新撰組に出会ってそこから色々な人と交流が出来るようになったのも
全てが御縁だと言うのですから、なんとも感無量な感慨に耽りました(笑

そんなことで、御住職様にはお会いできなかったのですが
伊庭八郎忌の御話なども伺えて素敵な御縁に恵まれた朝。
すがすがしい気分でAM9:00貞源寺を後にしました。
気付けばすごく長い時間御邪魔してましたよ。。。(^_^)
で、沼袋駅に立ち戻り、次に目指したのは浅草!
昨年、時間がなくなってしまい訪ねそびれた今戸神社訪問の為に!

この時、先輩隊士の東氏から連絡が入り今戸神社で合流することに。
AM10:00。浅草駅に辿り着いた拙者はまずは雷門を拝みに浅草寺へ。
が…どうも改修工事(?)ということで丁度この時雷門が取り外されてまして…
観光客がっかりさせないでよ。。。と肩を落としてから
隅田川の方へ足を向け直しました。浅草寺前の人力車の御兄さんから
今戸神社の場所を窺えば隅田公園を通って行くと良いよ?ということだったので
てくてく公園内を散策。青々と茂った桜の木の下を毛虫を警戒しながら進み(笑
グラウンド手前で通りに出て待乳山聖天を過ぎ本龍寺を過ぎれば
今戸神社はすぐです。駅から徒歩15分程度でしょうか。

この今戸神社。縁結びの神さまとして知られているそうですね。
イザナギノミコトとイザナミノミコトが祀られており、
子孫繁栄の男女の神ということで縁結びが謳われるようになったとか。
それと応神天皇とその母である神功天皇も祀っており、
安産の神としても崇敬されてるんだそうですよ。
そして今戸焼き発祥の地でもあるということで、
二匹が一体となった今戸焼き招き猫が授与されてました。

で、沖田総司の終焉の地碑。ありましたよ。
今戸焼き発祥の地碑の横に。こちら松本良順の私邸跡だということで、
沖田さんの終焉の地説は此方と千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅説がありますが、
この地で療養したことは確かだと思われます。神社は元は小高い山の上にあり、
山を切り崩して平地にしたということで位置は同じでも当時とは高さが違うそうな。

そうこうして沖田さんに想いを馳せるも、東氏を今戸神社で待つも
時間が惜しかったのでもう一移動。
江戸へ引き上げてきた新選組の隊士達が、
松本良順の治療を受ける為にしばらく滞在したという称福寺を探しに。

が。事前にしっかり調べていかなかったサーチ不足に足を引っ張られ
消防署の方に場所を窺ったまでは良かったものの東氏との待ち合わせに
時間が惜しまれ結局行けず終いでした。また来年でござる(笑
そんなこんなで東氏とは無事に合流できたので早速六本木へ向うことに。
総司忌で沖田さんのお墓参りができる時間は限られているので遅刻はできません。
六本木駅から専称寺まで、気持ち早足で先を急ぐも、去年工事していた
六本木ヒルズが行くてを阻み(方向音痴)あっち?…こっち…?と
ヒルズの案内板と睨めっこしながら専称寺に向いました。(無事辿り着けて良かった。

今年は去年(ギリギリだったので)より早めに参ったので混雑の最中でした。
墓地の脇に連なる行列。。。沖田さんの墓参りに参じた方々。
その数、ざっと30(は下らないでしょう)。。。すげ〜(@▼@)
この時、外気温はどのくらいあったでしょうか?
快晴も真夏日並の晴れ具合で、日向で並んでいると
ノースリーブでも汗ばむ陽気。日焼け対策をしてなかった為
待っている間、鼻の頭や首の後ろがジリジリ焼けて暑かったです〜。。。

そして待つこと20分程度。ゆっくり順番待ちの間、
気持ちを落ち着けていたのですが。。。
実は朝食抜きで巡察していた為、
拙者の腹はぎゅるぎゅる鳴りっぱなし。
沖田さんの前で恥ずかしいなぁ…と思いながら
手を合わせてきました。一年ぶりの再会(‘―‘)
大河ドラマで新撰組が報じられることなど語らってきました。

で、無事お墓参りも済ますことができたので総司忌講演会参加の為に渋谷まで移動。
しなければならなかったのですが、電車で移動すると、時間がかかる上に遠いので
去年同様タクシーを拾うことに。が、今年は先輩隊士の一人が都合がつかず
東氏と二人だけだったので、二人でタクシーを使うのは勿体無い。。。
ということで一緒に講演会参加される方と同乗しようと思い立ち、
お墓参りで後ろに並ばれていた方をナンパしました(笑
「タクシーご一緒しませんか?」と口説くと(笑 快く承諾してくださいリ、
一緒にお昼御飯をコンビニで買い込んで講演会も一緒に参加することに。
HN、蒼川侃さん。会場で改めて挨拶を交わしました。蒼川さんは総司FANということで
なんと静岡から御一人で参加しに来られたとの事でした(凄っ ←人のこと言えない(笑

PM1:30。いつものように朗読から始まって、
今回は山村先生の講談。今度のNHK大河ドラマ「新選組!」で
時代考証をご担当されている方ということで、大河作成の
裏話や今現在の脚本の進み具合、それに掻い摘んで内容紹介など
面白おかしいネタ話をてんこもりで聞かせてくださいましたvvv
時代考証という御仕事は、脚本の舞台設定に無理がないかとか
(その時点にいる筈のない人物が登場してないかとかいったCHECK)
舞台の情景や衣装、小道具などを考証するというものだそうです。

提灯一つにしても、模様の入れ具合にもちゃんと理屈があるのだとか、
池田屋騒動の本当の突入経路や戦闘模様がどんなだったかなど
図解などを示して頂き、大河の時代考証にあたっている様を伺いました。
キャスト発表で「いいかげんしたらあかんよ?」と思わされたりもしましたが
大河作成の裏舞台では皆さん真剣に(…御遊びな所もありますが)
取り組まれている様を紹介して頂けて「やっぱNHKやもんね」と思い直さされ
「新選組!」が本当に楽しみになってきましたv ちょっと脚本の触りを綴りますと、
第一話からして近藤・土方・桂・龍馬がひょんなことから出会い…
しかも四人つるんで黒船を見に行っちゃったり!!って豪華メンバー(笑
加えて佐久間象山も出てきて(第一話からして話の展開がよく分からないっ)
近藤さんを「鬼瓦」、土方さんを「木綿豆腐」呼ばわり!!

百歩譲って鬼瓦は許しましょう。。。けど誰を捕まえて木綿豆腐ですって〜!!
んもうっ(T▼T)掴みはOKですね〜(笑 しかも今の時点で脚本は10話まで
綴られているのだそうです。(歳三忌の折に伺った時は8話だったので一ヶ月で2話…)
遅筆と言われている通りスローペースなのだそうです。が、驚いたのはこの10話。
舞台が全て江戸とのこと。。。まだ京都に出てないんですよ彼らはっ(@■@;)
…いいんですか?タイトル「新選組!」ですよ?まだ新撰組の「し」の字もありません。
函館まで描かないという理由が見えました(笑 大河、新撰組は一年じゃ短いよっ!

といった具合に、気の抜けない講演内容でした(笑 また去年同様、士道塾の
方々が殺陣を披露してくださいました。拙者は最前列に陣取っていたので
目の前で間近に殺陣を拝見することが出来て大興奮しましたv かっこいい〜vvv
で。。。毎度最後に行われる抽選会。今回も(これで三回連続っ)空クジでした(T■T)
こうもすり抜けてゆく籤運。呪われているのでしょうか?
蒼川さんはまんまと新撰組キティのストラップが当選v 今回キティグッズが多かったです。。。
が、いつか番傘当てたいです!民宿THE土方の宿泊券も魅力的です〜vvv

好い加減御開きとなって拙者と蒼川さんは渋谷で御買い物を楽しんで
帰路、新撰組・幕末維新TALKに熱中しました(笑 やはり好き物同士、気が合う(嬉
東京駅から新幹線は「こだま」と「ひかり」で蒼川さんと御一緒できなかったのですが
朝方伺った「御縁」を蒼川さんとの出会いにも見つけることが出来て幸せでした。
事前に調べる余裕がなく、急拵えの総司忌旅行でしたが、今回も無事行って来れました。
また来年に向けて勉強しなくっちゃv …来年は大河の影響で凄いことになりそうね(0_0;)



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