巡察

会津・戊辰戦争
平成十六年 八月七〜十日

ついにっ、ついにっ会津です!会津に行きたいっ行きたいっと言い続けて
やっと、やっと会津巡察決行です!…といっても今回はかなり唐突に旅行することになりました。
というのも、拙者が「春には函館にも行けたし、なんだかんだで毎月京都にも足を運べているし、
今年は大河Year!様様だねっ。この分じゃ夏あたりには会津に行けちゃいそうじゃない??」
…なんて冗談めかしく何度も言い続けていたからかもしれないのですが、盆休みを控えて急遽
二十日前に父上が会津旅行決行のGOサインを出した為に二十日で旅行を計画することに…。

というわけで、今回の巡察は父上が足を引き受けてくれたのでレンタカーでの史跡巡りですv
が、二十日という限られた時間で旅行を計画する拙者は必死でした(*_*;
盆休み前ということで仕事もぎりぎりちょっぷな時だったのですが、昼休憩には史跡をHPで確認、
夕休憩には宿の予約…という具合な日を続けること十日間、、、どうしようもなくなって今回、
大変御世話になりましたのが新撰組サイト「幕末新選組慕情」の管理人りえ様。
りえ様の旅行記には「これから訪ねる方への御案内」がとても詳しく綴られてあり、
しかも車での移動を主にされたもので、今回の拙者の巡察には凄くありがたい情報満載でした。
早速、りえ様にもコンタクトを取らせて頂いて、着々と旅程を練り続け、いざ八月七日!出陣!

蝦夷旅行から三ヶ月。まさかこんなに早く、また飛行機に乗ることになろうとは…。
AM11:05、伊丹空港発。あっというまのフライトで、AM12:10、無事に福島空港着。
予定ではPM1:00からレンタカーの予約をしていたのですが、空港にもうレンタカーの
お兄ちゃんがスタンバッてくれていたので、早速カローラNCVに乗り込み、
最初に向かうは白河小峰城!…と、まずはカーナビの使い方からつまづく親子二人(TへT;(TへT;
カーナビの説明書と地図を両手にまずは拙者のマニュアルナビでとにかく出発!

まずは昼食調達の為に立ち寄ったコンビニで
福島初のビックリを体験(笑。めちゃくちゃ駐車場が広いでやんの…(゚■゚;(゚■゚;。
ぽかーんと口が半開き状態の親子二人(笑。大阪じゃありえません。
なんせトラックが5台も6台も普通に停められるくらい広いんだもん。
土地も広いからでしょうが、決行トラックの往行も多い為なのでしょうが、
驚きました。。。そんなわけで買い込んだパンをぱくつきつつ、
突然の雷雨にめげそうになりながらも、カーナビに導かれて
車を走らせること一時間。PM1:40。小峰城到着。
スコールのような雨を潜り抜けて曇りがちな空模様でしたが、
なんとも「風雲急を告げる」ような雰囲気を醸し出しているようで
そんな雰囲気に酔いながら登城(笑。

今でもよく甲子園で東北の高校が優勝したりすると、「優勝旗が白河の関を越える」
と表現されますが、古くは白河の関より北が奥州・蝦夷。
関は北への備えとされていましたが、江戸期に関に代わって関東と東北の関門として、
この小峰城(白河城)は奥州を守るにも攻めるにも戦略的に重要な場所でした。
戊辰戦争における白河口の戦いもここから始まりました。

慶応四年(1868)閏四月二十日、この城を会津藩兵が奪取。
二十二日には斎藤一改め山口次郎を隊長とする新撰組が白河城下に入り、
白河街道沿いの白坂口の関門へ配されて、二十五日の未明、
白河街道を進んできた新政府軍とぶつかり、緒戦は地の利を得て勝利。
しかし五月一日、激戦のうちに七百名もの死者を出す大敗北。
小峰城落城後、新撰組も会津藩領に近い勢至堂宿まで敗走することに…。

この時の兵火で白河城の建物は全て焼失してしまった為、
今の小峰城は平成三年に古地図を参照しながら
本格的に復元されたものです。小高い岡に雛壇式に造られた平山城。
復元された三重櫓は高さが約14メートルの美しいフォルムです。
が、注目すべきは城内の柱や床板。そこには鉄砲の弾痕が…(゚■゚)
というのも、れらの杉材は白河口の攻防戦が繰り広げられた
稲荷山から伐採したもので、当時を偲ばせる傷痕でした。

拙者も父上も戊辰戦争に改めて思いを馳せていると、
ここで天守閣入り口で係員をされていたおじ様達とも新撰組・幕末話に
火が付いて(笑)、元新撰組隊士であった清原清さんのお墓参りにも
行きたい旨を告げると、地図を書いてくださいました。ありがとうございます!

清原清とは本名は西村弥三衛門。熊本藩の脱藩者で、
慶応元年に江戸で新撰組に入隊した時に清原清を名乗り、
高台寺党に寄与して隊を離れ、油小路の変の後は薩摩藩に属して
武川直枝の名で白河口の戦いに参戦。白坂関門で討死し、
首を白河城下にさらされたといいます。しかもこの武川直枝、
板橋で近藤勇の正体を見破ったうちの一人だったとかで、、、
清原清を知る新撰組隊士も、晒された武川の首を見たかもしれないと思うと、
どうにもやるせない思いがしすね。。。

その武川直枝さんのお墓ですが、書いて貰った地図を頼りに、
東の城門を出て道なりに北へ足を向ければ、小峰城の裏手にある
鎮護神山の「戊辰薩摩藩戦死者之墓」に合葬されています。
が、、、この鎮護神山への入り口からしてちょっと怖い場所です。PM2:15。
薄暗くて細い獣道のような坂道を登れば、頂上に少し開けた場所があり、
そこに合葬の墓石が鎮座してあります。が、やはり薄暗くて怖いです。
「こんな所、女の子が一人でくるようなトコじゃない!」と半分腰が引けている父上。
「だから一緒に来てもらってんじゃないのさ。」と拙者。…親子揃って小心者です。

墓石の下の台座に戦死者各々の戦死の場所、所属隊、氏名が
記されているのですが、武川直枝の名は正面向かって一番右端の
枠内右から四番目に確認できました。合掌。。。

鎮護神山を後に駐車場に向かってもときた道を戻れば、気付いた
石垣の不思議な模様。重さに耐えかねてか波打ってはいましたたが
その石の組み方が明らかに作意的なモザイク模様の綺麗な石垣。

元々、小峰城は奥羽の伊達氏、上杉氏などの外様大名を
敵とした際の城なので北側の防御が重視されています。
城の北側には阿武隈川が流れているので、北の最初の防御はこの阿武隈川。
第二の防御が白河城の北・東・西の三方に備えた水堀。
そして第三の防御が白河城の特徴で面白い二段構えの石垣です。
実際、小峰城落城後、奥羽列藩の同盟軍は何度も奪還を試みましたが、
新政府軍の数倍の戦力で攻めたのにも関わらず、この石垣に阻まれて
百日に及ぶ白河口の戦いでついに奪還することばできませんでした。

さて、小峰城を後にして次に向かいましたのは長寿院
西軍の慶応戊辰殉国者墳墓、白河役陣亡諸士碑があります。PM3:10。
白河戦における長州・土佐・大垣・佐土原・館林等各藩の戦没者を
埋葬したもので、元々は薩摩藩の戦没者も埋葬されていたのですが、
先程の鎮護神山に改葬されました。
この長寿院。なかなか分かりづらい場所にあります。
カーナビに案内してもらったものの、ちょうどこの日、花火祭であっちこっちが
道路封鎖されていて、、、さらにこらえきれなくなったかのように
いきなりのスコール(T■T。ワイパー全開にするものの払い切れないくらいの大雨で
しばし近くの病院の駐車場にて雲切りの儀を試みることに。。。「あーめーやーめー!」

20分くらい粘っていたら次第に小雨になったので
駐車場から歩いて本町通りを西へ。
右手を注意して歩けば「慶応戊辰殉国者墳墓」と書かれた
長寿院の白い立て札があるので、案内に従って脇道を進めば
長寿院境内の手前に埋葬墓地があります。
先程の雨で墓地は水浸し状態だったので中に入ることは
出来なかったのですが、遠目に見ると一人一人の墓が建てられていて、
氏名の上に「官軍」と入っていました…。
ちょっとこれには「………。」と絶句させられましたが、、、

白河戦の後、白河の人々は戦没兵士たちを東西軍を問わずに葬られたようで
東西両軍の戦没者の墓碑・供養碑は、白河市内だけでも50以上あるとのこと。
この長寿院には西軍側がまとめて葬られていますが、東軍戦死者の供養碑は
戦闘場所となった市街地のあちこちに散在しています。一つ一つまわるのは
結構骨ですね。。。今回は限られた時間でしたので近間だけ回ることにしますが
いつかは白河周辺じっくり探索したいと思います。というわけで、次は隣の脇本陣へ。

隣といっても、先の本町通をそのまま西へ足を向けるのですが、
これまた凄く細い脇道の奥にある為に、注意して進まないと曲がり損じます。
「本陣」は大名、幕吏、勅使などの宿舎ですが、
「脇本陣」とは本陣に次ぐ格式の旅籠のこと。
白河口の戦いでは、この脇本陣の「柳屋」が新選組の宿舎とされ、
斎藤一をはじめに百六名が宿泊したそうです。
柳屋は、後の明治十四年の明治天皇東北巡幸の際、
往路は休憩所として、帰路は宿泊された宿ということです。
翌年、大火で柳屋も被害を受けたものの、
明治天皇の行在所にあてられた蔵座敷の土蔵は焼失を免れ、
「明治天皇行在所跡の碑」とともに建っています。

さて、本町通をそのまま直進して左手に折れれば徒歩五分ほどの場所に
皇徳寺があるのですが、、、またしても雲行きが怪しくなってきた為に
急いで車へ避難することに。というわけで菊池央さんの御墓参りはまた次回(T■T。
因みに菊地央さんとは新撰組隊士です。皇徳寺には「戦死人供養の碑」の横に、
白河口の戦いで戦死した菊地さんのお墓が並んで建ってあるそうで、
現在も手厚く弔われているとのことです。

車に逃げ込むと同時くらいにどどどーっと再度降り出した大雨。
しょうがなかったので予定変更で前述の「白河の関」へ行ってみることにしました。
県道76号線を車で南下すること20分ばかり。山間を走り抜ける道ですが、
地図を見れば白河の南側の地形は小山ながらもたくさんの山が連なる山岳地帯。
昔も今も関東から続く街道はいずれも山の間を縫うように走ってるので、
これらの小山を押さえれば頭上から街道を攻撃できるわけで、
先の白河口の戦いの説明で「地の利を得ての勝利」というのはこのことだと実感。

PM3:50。さて白河の関ですが、これは「関」ではありますが
江戸時代の関所ではなく、645年の大化の改新の時の文献にある事から、
その頃に蝦夷の南下を防ぐ為に建てられた砦だったと推測されているようで、
8〜9世紀頃に機能していたようです。←不勉強な時代なのでよく解りません。
平安末期に栄えた奥州藤原氏の領土の境界であり、
源義家、源義経もここから東北へ入ったということで、
特に歌枕に読まれることが多く、多くの文化人がこの地を訪れています。
有名所で松尾芭蕉もその一人。

しかし、やがて白坂越えという道が主に使われるようになり、
いつしか忘れ去られて僅かに伝承の中に白河関が伝えられるように。。。
そして後に白河藩主であった松平定信が白河関をここだと定めて、
現在地に碑を建立したということで、現在の白河関があるという次第。
階段を上りきった奥にある白河神社の他に復元されたものはなく、
先ほどの松平定信建立の碑と、空堀が往時をしのばせています。
国指定史跡とされているだけあって、なかなか時代を感じさせられる場所でした。

さてさて、元来た道を戻っていざ会津若松へ!斎藤さんの足取りを追うように
勢至堂峠に至る白河からの最短ルート、白河街道(茨城街道)である
国道294号線をひた走ります。ぶいい〜ん。

街を後にすればすぐ山間になり、カーナビの案内だけを頼りに
勢至堂峠を目指します。白河の戦いにやぶれて退いた場所ということで、
気持ちは後ろを振り返り振り返りしながら。。。
やがて山も奥深い場所になり、車の通りも寂しくなってきたあたりで
勢至堂峠にさしかかりました。PM4:00。
こんな→の看板があったので矢印の指すままに左へ折れて走ること10分。
古い家が立ち並ぶ袋小路に突き当たってしまいました。。。
峠って…どこらへんが峠って確定されてないんでしょうか??
よく分からないなりにも「まぁここらへん」ってことだけ印象付けてきました。

袋小路な上にカーナビにない道無き道を進んでいた為に、仕方がないので
先程のかどわかされた看板の場所まで戻って本道をさらに進めば
勢至堂トンネルがあります。…もしかして峠ってこのトンネルの上のこと??
どうにも地図に遊ばれているような感じでした。で、後で調べて知ったのですが、
どうも矢印で示された先は旧会津街道の勢至堂峠宿だったようで…。
古い街並だと思って見ていたのは、実は江戸時代に会津からの参勤交代の
宿場として栄えていたその町並みだったようで…。ほえほえ〜(0_0。
知って行くのと知らないで行くのとではエライ違いです。皆さん下調べは大切ですよ。

さてさて、そのまま国道294号線をひた走って、
次に向かったのは三代・福良。PM5:00。
宇都宮で負傷して会津で療養していた土方さんが、戦線復帰した場所ですね。
土方さんの戦場での存在は大きかったようで、
おおいに旧幕府軍の士気が高まったといいます。
そしてその本陣が敷かれた場所に本陣跡碑があるということだったのですが、、、
場所がわかんないっ(T■T。詳細な史跡地図がなくて、
どこにも案内とかないし…。結局わからずじまいだったのですが、
ここも「まぁここらへん」ってことだけ印象付けてきました。。。

また、福良には野戦病院があり、負傷した島田魁さんも
病院で治療を受けたといいます。
加えて新選組の宿舎としてしようされていたと伝わる
福良御用場跡もあったそうなのですが、
聞くところ、昨年の十月頃までは当時の遺構を保っていたというのに
取り壊されてしまったらしく、現存していないとのこと…(0■0。がびーん。。。

土方さんは後に福良から町守屋に移って、郡山への進軍を試みますが、
急遽二本松援護のため猪苗代城下・母成峠を目指すことになります。。。
その猪苗代城を臨むように福良から猪苗代湖を挟んで
磐梯山を拝んで→福良を後にしました。またもや雨に見舞われ必死の移動です(泣

PM5:40。日暮れも間近となってきたので、少々アクセルをふかせつつ
山道を急ぎます。。。湊町での分岐で県道374号線に突っ込み、
父上には真剣に頑張ってもらいました。
何故って、、、とにかくヘアピンカーブの連続で、すっごく山道らしい山道。
狭いは見通しは悪いはで…。拙者も前方確認必死でした(疲。
しかも怖いことに、この県道374号線は冬季は道路封鎖するような
場所らしく、、、後続車もいなくて凄く心細い場所でしたよ(泣。

というわけで、親子揃ってまたしてもビビリながら必死の山越えを果たして
抜け出た先は松平家霊廟の脇。もう日暮れまであと30分もないだろうと、
急いで県道325号線沿いの駐車場に車を停めて、いざ容保様のお墓参り。
PM6:25。霊廟の入り口に続く脇道手前に「まちに歴史あり」という
容保様の写真入で大きな看板があるので、入り口への道はすぐにわかります。
が、入り口から先は反則です。。。参拝者を拒絶しているかのような山道(T■T。

親子揃ってひ〜ひ〜言いながら、もう汗だくだくで上りました。
よりによって容保様ったら一番上の一番奥にいらっしゃるものだから、
二度ほど道に迷いながら、やっとのことで辿り着けました。。。
が、そこで迎えてくれたのは人懐っこい虻・虻・アブ!!うぎゃ――――っ!!

こっちくんな―――っ(゚■゚)ヾ(゚■゚)ヾとアブを払いながら容保様のお墓参り。
落ち着きのない親子ですいませんでした。は、恥かしい。。。
しかも手を合わせているうちにみるみる暗くなってきて、これはヘタしたら
霊廟で遭難するかも…って、それだけは御勘弁っ(泣)と、急いで山道を下りました。

戻り道、歴代会津藩主の墓を拝みながら暗い山道を下りたのですが、
歴代藩主のお墓はとても大きくて立派なもので、
当時権威を誇ったその象徴のようでした。が、それと比べて
容保様のお墓がいかにも質素でとても寂しく思いました。。。
どうしても落日の背景が醸し出されているようで、、、やるせないですね。

そんなわけで後ろを振り向くのも怖いくらい真っ暗になってから
無事霊廟を抜け出ることが出来ました。父上一緒に来てくれてありがとう。
絶対一人だったら途中で引き返しているところです。。。

PM7:00。これにて本日の巡察は終了。
本日の御宿は中町グランドホテル。
国道118号線と会津若松市役所前の道が交差する近くにあるビジネスホテルですが、
これまたこの日はその道々で御祭があるということで道路封鎖につかまり、、、
わからない道をぐるぐる回ってやっとのことで宿に入ることができました。とほほ〜。

しかし、ここで会津若松市内の地図や割引券等、色々入手することが出来ましたv
それに嬉しいことに赤ベコのストラップをプレゼントで頂き、
加えて御風呂にはバスキューブまで用意されててvvv
ユニットバスですがゆっくり入浴できました(^―^)あ〜びばびば♪

一日目を無事に過ごせたことを感謝しつつ、明日に備えて早めに就寝。
二日目は朝一から丸々一日会津市中の散策です!

2004.8.8 ⇒  詳しくは未だ執筆中☆

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