巡察

平成十五年 八月二十三日〜二十四日

帰郷を兼ねて車で浜松まで足を伸ばしましたので、
今回は“中島登めぐり”といきたいと思います(^―^)マイナーっすね。

…って、これまで二十云年も浜松へは行き来していたのに、
今日ここに至るまで浜松で「中島登」とも「新撰組」とも
縁がありませんでした。うお〜ん。。。
「浜松で幕末で有名って何かある?」と訪ねれば
「清水の次郎長親分かな?」といった感じで、
浜松の親類に「幕末」や「新撰組」に興味を持った人が
いなかったことが要因だったのですが、、、これから布教していきます(笑

ということで、「わからないかなぁ…?」と思いながらも
花屋を営んでいる親類に「中島銃砲火薬店」を訪ねると、
「ああ!駅の方にある猟銃とか扱ってる店だに?」と意外な返答。
浜松で唯一の銃砲店ということで、
仏壇の御花など注文を受けたことがあるという意外や意外な展開。

これは縁があるvと幸先の良さを感じながら、
まずは中島登さんのお墓参りに、浜松市山下町の天林寺へ。

因みに、今回帰郷した目的は、日頃孝行できない御婆様を
一泊旅行に連れて行くことだったので、同道して頂きました。
なので、車のハンドルを握ってもらう父上と共に親子三代での幕末巡りv
早速布教活動開始です(笑

さて、天林寺。AM12:50。
国道152号線を南へひた走り、左手にあります。
本道左脇から152号線を越える陸橋を渡れば見渡す限りの墓・墓・墓。
墓地の広さに唖然としながら、「墓前に写真が飾ってあるそうだから」と、
とりあえず、それだけを頼りにぐるっと歩いて探してみることに。

が…15分もしないうちに、照りつける真夏の太陽にギブアップ。
本堂に引き返して御坊様に尋ねてみることに。
「中島登さんのお墓参りに伺ったのですが、どちらにありますか?」と
ストレートに聞いてみました。が、言ってから
「中島登さんて言ってもわからないかな…」と次の言葉を探していたら
「ああ、銃砲火薬店の中島さんですね。すぐご案内しますね。」と
これまた意外な御返事。。。つい、
「あのっ、そんな有名なんですか??」と聞いてみれば
「ええ、お参りに来られる方も多いので、よく御案内しています」とのこと。
わーいv(^―^) と、るんるん気分で案内して頂きました。

橋を渡って右手側奥。綺麗な新しい墓石でありました。
御坊様にお礼を述べて、花屋の伯母さんに菊花を貰ってきたので
墓前にお供えさせて頂きました。な〜む〜…(-‖-(-‖-(-‖-)

中島登さんといえば『戦友姿絵』『中島登覚書』で有名ですが、
元は八王子千人同心が、なぜに浜松なのかといえば、
函館戦争後、明治三年に静岡藩に引き渡され、
元彰義隊隊士の家に食客となって浜松に居を定めたとのこと。

洋欄の栽培や鉄砲火薬取り扱い人の免許を取って営業を始め、
先年まで「中島銃砲火薬店」は、
中島登の一人息子の登一郎(歌吉)と
浜松肴町の沢木半平の三女“よし”の間に生まれた信一の子の
登(のぼる)さんが営んでいましたが、
今は登さんの奥様が一人で経営されていると伺いました。

ということで、早速「中島銃砲火薬店」へ。PM1:30。
ちょこっと挨拶だけのつもりだったので道脇に路駐して、
父上と御婆様には車内で待ってて貰い、単身御訪問。
銃砲火薬店なんて普段縁のない所なだけに、
ドキドキしながら「こんにちはー。」と戸を潜りました。

程無く左手の居間から奥様が応対に出てきて下さり、
新撰組隊士だった中島登を訪ねて来た趣旨を伝えると、
「そういえば去年は「新撰組隊士の中でも僕は中島登が一番好きだ」って
 言って訪ねて来て下さった方もいたのよ」なんて話から歓談させて頂きました。

先程、中島登さんのお墓参りもさせて頂いた旨を告げると、
「昔は天林寺はもっと広い敷地で、今は陸橋の向こう側にお墓があるけど
 以前はちょうど今陸橋があるあたりにお墓があったのよ」と教えて頂きました。
どうも、152号線を南北に貫く為に土地を削った際、お墓を移動したということでした。

また、話は八王子千人同心に飛び、
以前専門家に家系を調べてもらったということで
近藤勇と遠縁であることが分かったということで、
八王子の下柚木村庄屋の井上家という家から
中島家と宮川家へお嫁さんが嫁いでいるということでした。

が、つっこんで聞いてみたところ、ちょ〜っとその内容は複雑。。。
以下、気合入れて読んでみてください。

中島登の母“いち”の姉が井上家に嫁いでおり、その子が井上酬三。
そして酬三の妻は小平市廻田(めぐりだ)の山田家五代目、
山田庄兵衛の娘“さわ”とのこと。
そして山田家を遡れば、山田庄兵衛(四代目)の娘“栄”が
宮川家へ嫁いでいる為、これが近藤勇(宮川勝五郎)の母にあたる。。。
ということで、中島登が近藤勇と遠縁であるという次第。

ほうほう…と伺っているとお客さんが来られたので
一旦歴史話を打ち切り、銃砲火薬店の仕事ぶりを見せて頂きました。
お客さんはといえば近くの板前さんということで、
「板前さんが火薬を使うんですか??」とお尋ねすると、
「趣味でハンティングをしていてね、
 今度試合があるから良い弾を買いに来たんだよ」とのこと。

奥様は一度店の奥に引かれてなかなかお戻りになられなかったので
板前さんにも鉄砲についてや登(のぼる)さんについて御話を聞かせて頂きました。

お店の中には沢山の鉄砲器具やケース入りで銃弾が陳列されてあり、
鹿などのの剥製も飾られていたのですが、振り返れば入り口の真上に
三枚の立派な賞状が飾られていたので拝見させて頂いたところ、
内一つは中島登の『戦友姿絵』など戊辰・函館戦争の資料を
五稜郭の資料館に寄贈された際に贈られた函館市長からの感謝状でした。

当然のことながら、そこに書かれている御名前は
中島登(のぼる)さんですが、同姓同名ながら
どうして読みが違うのかという御話になりました。
昔は、それでピリオドになる読み方は良くないということで、
先に繋がる読み方が好まれたということです。
なので昔は“のぼり”。板前さんも興味持って聞いて下さいました。

15分程すると奥様が奥から20p角くらいの小箱を
重そうに抱えて戻って来られました。
よく拳銃の弾等のサイズは●口径と言われますが、
鉄砲の弾って重さで簡単に種類分けされているんですって。
板前さんが頼まれたのは一発32gの25発×20ケースで一箱の16sのもの。
「本物だから落とさないように気を付けてね」と、
実際に弾丸も手に取らせて頂きました。おお〜(」゚▼゚)」本物触っちまったい

危険物の部類なので国からの管理規定も厳しいということで、
弾丸や火薬は地下の倉庫に厳重に保管されているんですって。
もう奥様も御高齢なのに、地下から重い箱の出し入れは大変そうでした。

「凄いな〜…」と、銃弾の売買風景を見せて頂いていると、
「まだですか〜??」と、表から父上が痺れを切らして入ってきました。
「ひょえっ(゚■゚;父さんっ。。。」って、気付けばもう二時間近く話し込んでました。
あろうことか父上登場に際して奥様には、
「御兄さんですか?」と聞かれてしまいました…。そんな若くないっす(恥)
が、気を良くした父上も加わって
板前さんも巻き込んで奥様との幕末・鉄砲話は続き、
結局二時間半ばかり長居してしまいました。話尽きなくて。。。

そうそう、資料館に『戦友姿絵』などを寄贈した際の御話も伺ったのですが、
貴重な歴史的文化財として陸路で静岡から函館まで運ばれたんですって。
「わざわざ函館からトラックで来て貰ってねぇ…」と、懐かしそうにお話して下さいました。

といった具合に、いきなりの訪問だったにもかかわらず
色々な御話を沢山沢山聞かせて頂き、本当にありがとうございました!
そして思わず長居し過ぎてしまい申し訳ありませんでした、、、
最後に「大河ドラマ「新選組!」に中島登も出ると嬉しいですねv」と
奥様と握手して玄関先で記念撮影までさせて頂き、お店を後にしました。

興奮続きの濃厚な二時間半だったのですが、
御婆様は長々と待たせてしまいました…。
けど、車で御昼寝してくれていたので助かりました。。。(ほぅ。
御免ねっおばあちゃんっ(TワT;

と、ちょっと方向転換して向かいましたのは掛川
伯父さんや従兄弟の挨拶廻りに行ったのですが、
ここで「中島銃砲火薬店」を訪ねて来たんだよ、という話から、
拙者が幕末・日本史好きだということに話が飛び火して、
叔父さんが「じゃぁ、こんなの好きかな?」って言って、
思わぬところで歴史的御宝を見せて頂きました(笑

「蔵にあった」ということで、高校生の従兄弟が文化祭で使うために
引き出してきたという火縄銃や登城の際の裃などなど。。。

従兄弟が調べたところによれば、
時代は今から150〜160年前の文政・天保年間、
遠州遠江の国 佐野郡掛川藩主 太田備中守 御抱え
 庄屋 杉村藤左衛門(一代目)

の品々ということで、御先祖様が藩御抱えの庄屋だったことに一同8へぇ。

思いっきり私物なので、普通なら展示ケースに入っているような
品々も実際に手にとってまじまじと見せて頂きました。
「こんな古っちぃのの何がいいだに??」と叔母さんは不思議そうでしたが
父上と二人して、きゃっきゃ言いながら火縄銃抱えて記念撮影しました(笑

従兄弟も実際に文化祭では身に付けて紹介したということで、
これからも大切な財産として大事にしていくということでした。
また見せてね〜v(^▼^(^▼^)
まだ蔵には色々あるらしいので是非発掘して下さい。

因みに掛川城は脇を何度も通ったことあるのに登城したことないです。
いつも車窓から眺めるだけ。いつか登城したいですv綺麗ですよね♪

さてさてそんなわけで、また引き返しまして今日の御宿は舘山寺温泉
浜名湖に突き出した庄内半島にある温泉街です。
御婆様にはゆっくり温泉につかって頂き、父上には親孝行して頂きました。
拙者…は、宿前の砂浜散策して遊んでました。←駄目娘。





明けて24日、今日も真夏の快晴。
朝は早起きして、岬の先端にある標高50mの舘山の
舘山寺遊歩道を散策しましたvAM7:30。
愛宕神社で夏らしい光景を発見(゚▼゚)カブトムシだ〜♪
柄杓にちょこんとメスカブト発見。もう気分は小学生です(笑

また縁結地蔵で御利益を願いつつ(未だに効果ないわっ…泣)
弘法大師が開いたという舘山寺にもお参りしてきました。
今から約1200年前(810年)の曹洞宗の禅寺ですって。

その後、対岸の大草山にある
浜名湖オルゴールミュージアムにも遊びに行きました♪
芸術品といわんばかりの十九世紀のドイツ製オルゴールや
一見オルガンのような自動演奏楽器などが展示されてあり、
巨大オルゴールによる定時コンサートも鑑賞してきました。
大音響で大迫力でしたよ(驚。

今回は日程がかつかつだったので、ちょっと駆け足な旅行でしたが
思わぬ収穫が沢山あったのでとても楽しかったです♪
父上、御婆様、ありがとうございました!また親子三代一泊旅行行きましょうv

※後日人伝に聞きましたところ、
 「中島銃砲火薬店」は平成16年3月で閉店されたということです。


平成十五年 十月五日

今回はそら色のだんだらの大阪オフ会に参加してきました!
拙者は朝一で私用があった為に最初から参加することが出来ず、
上本町から移動して四天王寺前夕陽丘駅でAM11:00、そら太さんとひろえさんに合流。
御二人はまず最初に阿倍野墓地で長州藩士の鳥羽伏見の戦いの際の
招魂碑や顕彰碑などを御参りしてきたそうです。拙者も次回はっ(゚0゚)

で、早速夕陽丘周辺を散策。まずは陸奥宗光の清地蔵をスルーして
「燃えよ剣」のあの夕陽丘へ。前に訪れた際は一人で歩いたのでびくびくものでしたが、
やはりいかがわしい場所には変わりなく、ここらは日の高いうちに訪ねるべきだと改めて思いましたよ(笑
みれば脇に備え付けの説明書があったのでせしめて行きました。

で、次に大江神社に向かいました。夕陽丘から西へ徒歩五分程度。
どうも時期柄、阪神タイガースの優勝祈願がされたようで、、、
一角が虎だらけになってました(゚ヮ゚;
で、この神社の下手に長州の「旧山口藩殉難諸氏招魂之碑」がある
というので、社務所の方に確認をとってから訪ねてきました。
一般者立ち入り禁止ということなので気を付けましょう。
前に大江神社を訪ねた際には西正面から訪ねたので、
鳥居から続くなっがい階段を上ったので凄く大変でしたが、
今回は東側から訪ねた為に階段は下りで助かりました(TヮT)
階段途中にホームレス対策で設けられた柵をすり抜け、真横にのびる
雑草茫々の間道を進めば、ありました。ぬっと聳え立つ招魂碑。
そら太さんに伺えば、もともと霊山のものもここにあったのだとか。

AM11:40。そのまま階段を下り、次に訪ねたのは万福寺。新撰組大阪屯所跡ですね。
何も残ってないのが実に残念ですが、今回も入り込んでうろちょろ。←不信人物三人。
そのまま松屋町筋を北上して、PM12:20、そら太さんのナビで次に尋ねたのが大仙寺と妙法寺。
こちらは伊庭八郎の大阪での宿舎だったとのこと。大仙寺には当時を偲ぶ面影はないですが、
妙法寺はとても立派なお寺でした。伊庭八郎はまだまだ勉強途中なので、
大阪にこんな史跡があるとは知りませんでした。。。

と、ここで昼ごはんを近くのうどん屋さんにてカレーうどんを食してエネルギー充填。
PM1:35。水分補給もして引き続きそら太さんのナビで次に足を向けたのは
「ぜんざいや事件」跡。石蔵屋跡です。
この事件は土佐浪士たちによる大阪城焼討ち計画を未然に防いだ
谷三十郎・万太郎兄弟らの手柄でした。が、悲しいかな。。。
「勝てば官軍」ってわけで碑に綴られているのは「贈正五位大利鼎吉遭難之地」。むぅ。
しかしこの石蔵屋跡碑、これまでずっと一人で探しては見つけることが出来ず、、、
今回やっと当地を訪ねることが出来たのですが、
普通に道端にぽつんと碑が立っていました(T_T)…あの苦労は一体。。。うえーん。

さて、ここから電車移動して、谷町四丁目下車。
PM2:00。次に尋ねたのは大村益次郎殉難の碑。
大阪病院脇に碑があります。すごく大きいです。
明治二年(1869)九月、京都で不平士族に襲われた際の
遭難の地碑が京都の高瀬川沿いにありますが、
大村益次郎の亡くなった場所は大阪なんですね(゚_゚)

で、大阪城を左手に見てちょっとNHKに立ち寄って来ました。
もち、大河関係のものを物色しに(笑)が、残念ながら
この時はまだ武蔵関係のものしかなく、、、
ふと空を見上げれば空一面にひろがる鱗雲。
ちょっと驚きだったので写真撮ってみました→

NHK大阪放送局を後に大阪府庁横でセイミ研究所跡をみて、
PM2:30。天満橋手前で大阪商工会議所とマイドームおおさかの
間にある五代友厚らの銅像をみに行きました。因みに、マイドーム
おおさかの場所は大阪西町奉行所跡で碑も立ってますよv
なもんで、会社で此方の方と御話する時はどうしても
役所の方を与力様に見立てて想像してしまい、、、はわ〜。

そんな御馬鹿な御話もそこそこに、さらに北へ歩き続けて
PM2:40。訪ねたのは大釣鐘。
釣鐘町に幕末期から永らく時刻を知らせる鐘であったようで、
今は自動的に鳴るようになっているそうです。

さらに歩き続けて、そのまま天満橋駅の方へ。PM2:50。
八軒屋船着場跡碑があります。坂本龍馬や西郷隆盛ら多くの志士も
この船着場を利用したといいます。が、ここから徳川慶喜も
鳥羽伏見の戦いの際に天保山へ向かったのでしょうね。。。
ここにも脇に備え付けの説明書があったのでせしめて行きました。

天満橋から西へ北浜に向かってさらに歩き、PM3:15。
今橋平野屋の碑を発見。新選組の活動資金として
この平野屋から百両を調達した際の土方、沖田、
永倉、野口の名で借用書が残っているそうで。
この資金でだんだら羽織を作ったという両替商ですな。
碑には「天五に平五 十兵衛横丁」とありますが、
これは…通称? そうそう、鳥羽伏見の戦いの後、
大坂へ来た隊士達が休息していた先の八軒屋船着場で
平野屋さんは炊き出しをしてくれたそうですね。

で、そしてもう少し先の鴻池本宅跡も尋ねました。
徒歩三分程度です。北浜郵便局の正面にあたります。
鴻池からは二百両借り入れ資金としてますね。。。

そこからそのまま淀屋橋の方へ進路を変えて
適塾を訪問。緒方洪庵が開いた私塾です。
蘭学や西洋医学を教えていたということで、
橋本左内、大村益次郎、大鳥圭介、福沢諭吉などなど、
幕末、明治で活躍した多くの人材を輩出した場所です。
どうしたわけか最近まで大鳥圭介を失念していまして、
適塾内に大鳥さんの書があって「どうしてあるんだ?」
などとボケたことを言って笑われてしまいましたよ(^ヮ^ゞ

で、これは見逃せないだろうってのがこの柱!
すごい刀傷だらけ…というか削られすぎて柱としては大ピンチ
な状態だと思われるのですが、、、説明書きには「溢れる若き情熱の所業…云々」
といったようなことが書かれていましたが、これを見る限り新撰組より適塾生の方が
よっぽどタチ悪いと思いませんか??八木邸なんかに残っている刀傷を比べれば
あんなの可愛いものですよ。ねぇ?(笑。

さて、見る場所をすっかり違えていますが、まだまだ歩き続けて
淀屋橋から梅田に北上して大江橋を渡り終えたところに蜆橋跡を発見!!
「あっれ〜!?(゚ヮ゚;)…あれっあれれ!?」と拙者、開いた口が塞がりませんでしたよ。
この蜆橋跡も先の石蔵屋跡同様に一人で一生懸命探していたのですが、
この場所は通勤でもよく通る場所で、何で今まで気付かなかったのかと悶絶。。。

こちら芹沢、沖田、斉藤らと大阪相撲の力士たちが、狭い道を譲る譲らないの
押し問答の末乱闘をおこし、力士の熊川を斬り殺したという事件が起きた場所です。
ぬあ〜。最近の史跡MAPって凄く便利ですね〜(TヮT)
もうこれからは住所で調べたりしなくてもいいっすね〜(泣。
と、そこでまた空を見上げてみれば昼間の鱗雲がこんなふうに…(゚ヮ゚)→綺麗でした。

PM4:15。起伏はそれほどない道程でしたが、いい加減歩きつかれたこともあり
少々近くの喫茶店で、ひろえさんとそら太さんから拙者の過去の無駄な労力消費を
なぐさめてもらいつつ…(T▼T)一息ついて、もう一踏ん張りっ!

そこから西へ肥後橋まで歩を進め、新撰組が拠点とした町会所の
そばの(多分…何もありません。)土佐堀川にかかる常安橋を背に、PM5:25。
長州藩邸蔵屋敷跡の開運山長州大師高野寺を訪問。
が、当時を偲ぶようなものはなかったのが残念。
近くの交差点に長州藩邸を示す碑もありました。

そこからワンブロックほどさらに歩いて大村益次郎寓居の跡へ。
村田蔵六(大村益次郎)は嘉永二年(1849)から、この倉敷屋作衛門宅に住み
適塾に通っていたというので、我々も実際に歩いてみてその距離感を実感しました。

さてここですでに時間はPM5:40。ひろえさんとはここでお別れ。
が、当初の旅程では残すところあと一ヶ所!ここは行っておこうかっ!
と、力み勇んでさらにそら太さんと向かった先は天保山!
バスで移動すること40分。天保山は日本一低い山とは聞いていたものの、
知らぬうちに登頂してしまいましたよ。登頂記念に写真を一枚(笑。

徳川慶喜がここから江戸に帰った場所です。というわけで、
天保山碑があるというので碑をさがして真っ暗な公園内を
二人してうろうろ。。。何方かの銅像やら(暗くて説明書きの
文章判読不能…)明治天皇観艦の碑やらに惑わされながら、
探し続けること10分。公園東側の入り口すぐのところに
天保山跡碑がありました!PM6:35。これにて旅程完遂(^ヮ^)>

とことん歩き続けた一日でした!万歩計つけておくんだった。。。
最後に天保山のアミューズメントパーク内でイカ焼きを
食べてから帰路に着きました。御疲れ様でしたっ!!



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