■ 新撰組隊士 人物・経歴 紹介

新撰組隊士達の経歴をさわり程度に御紹介。
調べてみて、結構不明な個所か多いことに驚きます。
たかだか130年程度前のことだけど…(人間で言えば4・5世代前ってことになるかしら?)
江戸時代、戸籍を管理するとかいったシステムがなかったのか?
正月にいっせいに歳をとる時代、誕生日すら覚えるなんてことしない時代だし。
う〜ん…今じゃ、他人様の戸籍を調べることできませんしねぇ…(-_-)>

散々調べ尽くされたと思っていても、
見落としやまだ眠り続けている史料はあるはず。
研究書なんかに載っていることって、結構関係ないところから
ぽろっと出てきた物なんですよっていう話もありますし。
新撰組だってまだまだ知られていないことがあると思うとワクワクしてきますねv

あの時誰がどうしていたのか! この時誰は何をしていたのか!
知りたいこと、謎に思うこと、当人達にしてみれば「ほっとけよ!」と思えることまで(笑。
が、…ふと、「覗き根性に似ているかもしれない…」と思いました(/TmT)/
他人様の人生勝手に覗き見してるような、そんな感覚…?
…う〜ん・・・いくら時の人だからといっても、これって犯罪チックかも!?
歴史研究家の方って、どういった姿勢で調べているんでしょうかね?

ま、是非はともかく拙者が新撰組入隊の際(FANになってから)、
ちょいちょい調べた主要人物の履歴を御紹介。
(不確かなものが多く、詳細は大幅にCUTしちゃってますので御了承を。)



■ 近藤 勇

天保五年(1834)武州上石原村の農家に生まれる。剣術の才を認められ、天然理心流近藤周助の養子となり、試衛館道場の主となった。文久三年(1863)三月に門弟らとともに上洛して新撰組を結成!局長として隊を指揮するが、明治元年(1868)四月に新政府軍に投降して斬首された。享年三十五歳。
← ドデカイ顎の持ち主だったらしく拳骨をガバチョと頬張ることが出来たといいます。また、半刻と閑談出来ずに話が煮詰まると火鉢をグリグリ掻き回す癖があったとか。だから近藤さんが来る時は火鉢を隠すのが習慣だったようで…(^〜^)>
→ 現存の写真を見ても解る通り好い男です。故郷に貰った恋文を贈っているので、京坂での女性関係が派手だったことが伺えます。しかし、どうも八方美人な女性は好みではなかったようで…。人によっては敬遠するような気の強い女性が好みだったようですよ(/+_+)/ ■ 土方 歳三

天保六年(1835)武州石田村の農家に生まれる。我流で剣術の腕を磨いた後、天然理心流剣術を学び、近藤と親交を深めた。ともに上洛して新撰組を組織すると、副長を務めて隊の強化に力を尽くした。近藤の死後も新政府軍に抗戦を続け、明治二年(1869)五月に函館で戦死。享年三十五歳。
■ 沖田 総司

天保十三年(1842)白河藩士の子として江戸に生まれる。少年の頃から試衛館に預けられ、十代で天然理心流を極めた。上洛後は新撰組随一の剣客として一番組長を務めたが、肺結核を患い、明治元年五月に江戸千駄ヶ谷で病死。享年二十七歳。
← 浅黒くてヒラメっぽい顔だったといいますが、当時流行した紫色の元結を使っていたというあたりオシャレでもあったのでしょう。他の隊士とは違って、いつも張りの利いた袴を着用していたともいいます。清潔好きだったんでしょうね(^▼^)v
→ 実直で素朴な性格をそのまま表したように、いつもおっとりしていて優しい方だったよです。源さんの愛称で親しまれていました。年寄扱いされることが多いのですが、近藤さんより五つ上で沖田さんとは十三歳違いなだけですよ? ■ 井上 源三郎

文政十二年(1829)八王子千人同心の子として武州日野に生まれる。近藤周助に天然理心流を学び、近藤勇らとともに上洛後は新撰組の六番組長などを務めた。明治元年正月、鳥羽伏見の戦いで戦死を遂げた。享年四十歳。
■ 山南 敬助

天保七年(1836)陸奥仙台に生まれる。江戸に出て北辰一刀流を極め、のち天然理心流に転じて近藤に師事した。上洛後は新撰組総長を務めたが、慶応元年(1865)二月、意見の違いから隊を脱走し、隊規違反の咎で切腹させられた。享年三十歳。
← 幅広い知識と教養を身につけた文武両道の人で、壬生の人からも信頼される方だったようです。彼の新撰組隊士としての活躍を記録したものは少ないながら、強烈な切腹エピソードを残しました…。新撰組史七不思議の一つです…謎。
→ 神道無念流を極めるも、さらに剣の修行をすべく脱藩したという根っからのスポーツ青年です。彼は新撰組結成時から新撰組幹部として明治・大正の世も生きた新撰組の語部でした。新撰組の記録を後世に残し、義を衛って生きた後半生にも賞賛!! ■ 永倉 新八

天保十年(1839)松山藩士の子として江戸に生まれる。新道無念流を極めた後、近藤と出会い試衛館の食客となった。上洛後は新撰組の二番組長を務め、隊の中心戦力として活躍。明治元年三月に脱隊し、大正四年(1915)七十七歳まで生きた。
■ 原田 左之助

天保十一年(1840)伊予松山藩の中間の子として生まれる。種田宝蔵院流の槍の達人で、隊内一の美男子だったといわれている。十番組長などを務めた。明治元年三月に永倉と共に脱隊して靖共隊を組織するが、彰義隊に転じ、五月の上野戦争で戦死。享年二十九歳。
←腹で刃金を味わった漢。豪放磊落な暴れん坊だったようですが、結婚後の家庭的な良いお父さん振りのエピソードも残ってます。上野で戦死とされているが、満州に渡って馬賊になったとも…。お墓がないだけに信じてしまいたい話であります(T■T)
→ 北辰一刀流も目録止まりである為に、彼の剣の腕が疑われることがあります。が、途中で試衛館に転がり込んだので目録止まりなだけ。十代で免許皆伝はそう出来るものではないので疑うのは間違いです。試衛館では土方さんと剣の相性が良かったようです(^▼^)> ■ 藤堂 平助

弘化元年(1844)に生まれる。津藩主藤堂和泉守の落胤と自称していた。北辰一刀流をよくし、八番組長などを務めた。しかし、慶応三年(1867)三月に御陵兵士として新撰組から分離すると、同年十一月の油の小路事件で新撰組に斬殺された。享年二十四歳。
■ 斎藤 一

弘化元年(1844)幕臣の子として生まれる。無外流をよくし、三番組長などを務めた。会津戦争では隊長となるが、単身会津に残り、維新後は新政府の警視庁に出仕した。大正四年(1915)七二歳で没。
← 大酒飲みの赤ら顔であったといいます。維新後の藤田五郎という名は会津藩主松平容保から頂いたものだとか。とても折目正しい生活をしていたらしく、武士の節度を体現した人だったようです。(^_^)○
→ 色白で巨漢体だったといいます。あまり好い印象を持たれていない代表格のような彼。やはり京坂での乱暴な振る舞いが悪い印象を与えているのでしょう。酒が入っていない時の近藤との和やかなエピソードも残っているので、根は凶悪非道な人ではないのカモ? ■ 芹沢 鴨

天保元年(1830)水戸藩士の子として生まれる。天狗党の出身。神道無念流免許皆伝。文久三年三月に幕府浪士組に加わり、三番芹沢鴨組率いて上洛。壬生浪士組を結成し、近藤勇と共に局長を務めた。しかし隊命を汚す粗暴な行為が目立ち、同年九月、壬生八木邸にて土方歳三らの手で暗殺された。享年三十四歳。
■ 新見 錦

生年天保七年(1837)水戸出身。江戸浪士組に加わり、三番新見錦組率いて上洛。壬生浪士組結成当初、芹沢、近藤と共に隊長格にあったが副長に降格。文久三年九月に、近藤の意に反するところから詰め腹を斬らされる。新見は田中伊織という別名を用いていたと考えられている。
■ 平山 五郎

生年文政十二年(1829)播州姫路出身。花火の暴発によって左目を失明していたらしい。芹沢一派であったが、いつごろから親交があったのかは不明。幕府浪士組に加わり三番芹沢組下で上洛。神道無念流を使い、壬生浪士組で副長助勤を務めた。芹沢鴨暗殺時、共に殺される。享年三十五歳。
■ 野口 健司

生年天保十四年(1844)水戸出身。幕府浪士組に加わり三番芹沢組下で上洛。神道無念流を使い、壬生浪士組で副長助勤を務めた。彼も芹沢派とされているが芹沢派粛清後も三ヶ月間隊務を務めている。しかし同年十二月、安藤早太郎の介錯で切腹。
■ 平間 重助

生年文政七年(1824)常陸国行方玉造町出身。芹沢鴨に師事し、神道無念流目録を得た。幕府浪士組に加わり三番芹沢組下で上洛。芹沢派粛清時、平間は虎口を脱出し姿を晦ます。姓を諏訪部と変えて岩手県へ流れ、明治二十二年没。
■ 吉村 貫一郎

生年天保十一年(1841)奥州南部出身。北辰一刀流剣術を使い、慶応元年四月江戸で入隊。諸士取調役兼監察、撃剣師範、目付を歴任。鳥羽・伏見の戦いに敗走後、大坂で脱走。出身の南部藩邸に出頭し帰藩を求めたが諫められ、切腹。享年二十九歳。
← 撃剣師範でもあったように、剣の腕は沖田・永倉・斎藤と並ぶほどであったとも言われています。また若い隊士達の世話もして面倒見の良い人だったようです。南部藩邸で切腹に際し、遺品を故郷の家族に届けるよう血文字でしたためたという泣かせるあのエピソード…実は虚構らしいです(T_T)
→ 壬生心中で語られている彼。が、実のところ心中物語は虚構らしいですね?当時心中は忌まれるものだったというので、しっかり墓を立てて埋葬されているあたり、彼の死因は心中ではないと考えられるようです。 ■ 松原 忠司

生年不詳。播磨小野に生まれる。関口流柔術をよくし、文久三年五月に新撰組に入隊した。四番組長、柔術師範などを務めたが、慶応元年におかした失策を恥じて切腹未遂事件を起こす。その後は平隊士に降格され、同年九月になると切腹傷が悪化して死亡した。
■ 島田 魁

文政十一年(1828)美濃大垣藩に生まれ、藩士島田家の養子となる。脱藩して上洛の後、文久三年五月に隊士募集に応じて新撰組に入隊。諸士取調役兼監察、伍長を歴任し。戊辰戦争時に会津では軍目、箱館では頭取を務めた。明治三十三年(1900)七十三歳で没した。
← 江戸の坪内主馬道場・心形刀流出身で永倉とは息が合った。鳥羽伏見の新八掴み上げエピソード通りですね。維新後は西本願寺の守衛を勤め、歳三の戒名を肌身離さず持っていたといいます。イカツイ印象とは裏腹に甘い物が大好きで、汁粉は鍋一杯食べたとか(^▼^)>
→ 背の高い寡黙な男だったといいます。文武に優れ、香取流棒術をよくしたといいます。他に長巻が巧みだったとも…(長巻って何?忍術?)松本良順から救急治療法を学び、「我新撰組の医者也」とおどけてみせたとか(^x^) ■ 山崎 烝

生年不詳。摂津大坂の鍼医師の子として生まれる。文久三年に新撰組が結成されると、隊士募集に応じて入隊。諸士取調役兼監察、副長助勤を務めた。明治元年正月の鳥羽・伏見の戦いで負傷し、江戸に退却する船中で没 した。享年三十四、五歳と伝わる。
■ 武田 観柳斎

生年不詳。出雲母里藩の医者であったが、文久三年冬頃新撰組に入隊。五番組長などを勤めたほか長沼流の兵法を隊士たちに指導した。しかし慶応三年に脱走し討幕派に寝返った為、同年六月鴨川銭取橋で新撰組に斬殺された。
← 男色の印象が強烈なこの人。しかし、実際は酷い色ボケではなかったようですよ?元が医者ですから学識ある真面目な人だったハズ…。医者だから〜…とか言わない! が、幹部にはオベッカを使い下っ端には嫌味を言う性格で、好かれる人柄ではなかったようですね?
→ 何時の世にも美男子は語り残されるもののようですね。彼の脱隊は特殊。脱隊=切腹であった新撰組中で、近藤から里に帰されたというのです。しかし気の毒ですね。よりによって嫌われ者の観柳斎に惚れられ迫られたというのですから…(やっぱり注目は其処か!?) ■ 馬越 三郎

新撰組の美男子として隊中美男五人衆の一人に挙げられる。歳は十六で笑うも恐れるも女のようであった。この美貌が仇となり、武田観柳斎に惚れられてしまう。そのうち馬越は武田が薩摩屋敷から出る所を目撃して密告。しかし、仲間を売ったとして隊に居辛くなった為、近藤勇は金を与えて馬越を故郷に帰した。
■ 楠 小十郎

生年、出身地共に不詳。文久三年六月頃新撰組に入隊。隊中美男五人衆の一人に数えられるが、長州藩の桂小五郎に送り込まれた間諜であることが発覚し、同年九月、原田左之助に斬殺された。十七歳と伝わる。
← 間諜とは今で言うスパイですが、美少年を送り込むとは…桂小五郎侮り難し! 左之助が楠君を斬り殺して「あ〜、イイ気持ちだ」と言って笑っていた為に、後で近藤にこっ酷く叱られたというエピソードがあります(T_T)>
→ 色濃いエピソードが無いので印象薄いのですが、結構、隊結成早くから参入して函館まで戦い抜いているあたり隊暦の長い彼。なんとなく、温厚な方だったのではないでしょうか? ■ 山野 八十八

隊中美男五人衆の一人。歳は二十一・二であったから美青年が正しいか?壬生寺裏やまと屋の水茶屋の娘との間に子供ができたが、箱館戦争まで参戦した。後に京都に戻り小学校の小使いになる。祗園の芸者になっていた娘と再開後、平和に暮らす。
■ 佐々木 愛次郎

隊中美男五人衆の一人。香具師の娘と恋仲であったが、そこに芹沢鴨が娘を妾に差し出せという。佐伯又三郎に騙されて娘と脱走した佐々木は、佐伯他四・五人の隊士に殺されたという創作が有名。実のところ、長州藩の間諜だった彼が新撰組に寝返った為、久坂玄瑞に殺されたという。
← 虚構にせよ悪者とされる鴨さんって…。楠君同様、彼も間諜として長州から送り込まれたようですが、やはりその采配は桂小五郎?やっぱり美少年ですし…。桂さん、貴方は一体…?←見方間違ってます!?
→ 女性関係といっても気の強い女に迫られて断りきれず…といったことみたいですが、よほど居辛かったんでしょうね。男所帯で女が絡むと大変だったんでしょうね? ■ 馬詰 柳太郎

隊中美男五人衆の一人。父親と二人で新撰組に入隊。二十になったばかりの男で気が弱かったという。女性関係で隊中に居辛くなり、ついには親子揃って脱走してしまった。
■ 浅野 薫

名は藤太郎とも伝わる。生年不詳、安芸広島藩の医者で、文久三年頃京都で新撰組に入隊した。一時期は副長助勤を務めたが、慶応二年九月の三条制札事件での失策がもとで追放。翌年、隊名を騙っての金策が露見し、川勝寺村で沖田総司によって斬殺された。
← 池田屋事件にも参戦している古参隊士だったのですが、三条制札事件では臆病風に吹かれてしまいました。…本当に恐怖に怖気づいたのでしょうか?これって誰の意見でしたっけ?疑。
→ 自慢の弓を活かすことが無かったのが残念。幕府が作成した割賦表の末尾に 別段金十両宛 三人へ とある。これは討死した奥沢栄助と負傷後死亡した新田革左衛門と安藤を示しているものと思われる。池田屋の報奨金十両は遺族へ慶弔金として贈られたのでしょう。 ■ 安藤 早太郎

生年不詳。三河挙母藩士であった頃は弓の名人として知られ、脱藩して京都一心院の虚無僧となった。文久三年五月に新撰組の隊士募集に応じて入隊。副長助勤を務めるが、元治元年六月の池田屋事件で重傷を負い、翌月没した。四十四・五歳。
■ 谷 三十郎

生年不詳。備中松山藩士の子として生まれる。種田宝蔵院流の槍の達人で、文久三年頃、次弟万太郎、末弟昌武とともに新撰組に入隊。七番組長、槍術師範などを務めて隊内で重きをなすが、慶応二年四月に急死。
■ 谷 万太郎

天保六年(1835)備中松山藩士の子として生まれ、直心流剣術をよくし、文久三年頃兄弟揃って新撰組に入隊。入隊後、大坂南堀江に剣術道場を構え、そこを拠点として討幕派の動向を探った。慶応二年頃脱隊し、明治十九年、五十二歳で没した。
■近藤 周平

嘉永元年(1848)備中松山藩士の子として生まれる。本名は谷昌武。近藤勇に見込まれて養子となるが、たいした武功も挙げられず後に解消。明治元年正月、鳥羽伏見の敗戦後江戸で脱走し、同三十四年に五十四歳で没した。
■ 川島 勝司

生没年不詳。山崎川島村に生まれる。文久三年五月の新撰組隊士募集に応じて入隊し、諸士取調役兼監察、伍長を務めた。元治元年七月の蛤御門の変の際には斥候として活躍する。しかし性格が臆病ということで除隊処分を受け、隊命を騙っての金策が露見した為斬殺された。
■ 葛山 武八郎

生年不詳。陸奥会津に生まれる。文久三年頃新撰組に入隊し、伍長を務めた。元治元年六月の池田屋事件にも参戦するが、同年八月頃、同士と共に近藤勇糾弾の上書を会津藩に提出した為、その全責任を一身に負わされて翌九月に切腹させられた。
■ 阿部 十郎

天保八年(1837)出羽羽広村に生まれる。文久三年六月頃新撰組に入隊し、翌年五月頃脱走した。慶応元年正月の石蔵屋事件の手柄によって隊に復帰するが、同年三月には御陵衛士として再び脱退する。明治四十年、七十一歳で没した。
■ 尾関 雅次郎

生没年不詳。大和高取に生まれる。文久三年六月頃新撰組に入隊し、諸士取調役兼観察を務めた。弟の隊士、尾関弥四郎が病死した後も在隊し、尾関泉の名で戊辰戦争を戦った。箱館では新撰組差図役となり、明治二年五月新政府軍に降伏。
■ 酒井 兵庫

生没年不詳。摂津住吉に生まれる。文久三年頃新撰組に入隊し、勘定方などを務めた。慶応元年に強化された隊規の苛酷さに恐れをなして脱走するが、郷里住吉に潜伏しているところを沖田総司らに発見されて斬首された。
追筆中カキカキ…★

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