星火燎原



早朝の神社の空気は静寂そのものである。
まだ夜の残滓が漂う境内はただ時間の流れを証明するように、
風が緑を撫でる音だけが響く。
蝉の鳴く声はまだ然程煩くはない。
否、蝉の声はもう既に耳に届いてはいなかった。
腰を下ろした石段の冷たさも、夜露を孕んで髪を戦ぐ風も、
彼を深い思考を妨げる障害になり得はしない。
逆にそれはより深く彼を思考の海に沈ませた。
意識は自分の内奥に向かって進む、取り留めのない思考を絡めとって糸を縒るように、
その縒った糸を織っていくようにひとつの結論を築き上げていく。

正論のないこの時代に先を視るのは不可能に近い。
僅かな未来さえ、時には微かな過去でさえ識るのは容易なことではない。
各各の正義が錯綜する京では確かなものなどありはしない。
ただあるのは憂国の思いのみ。
今、それがこの国の行くべき末を探っているのだ。
それが例え血生臭いただ殺戮であったとしても。
己が正論を貫くことだけが混乱するこの都に於いての唯一の正義なのかもしれない。

彼は己が正義を一片の曇りなく信じられた。
それが果たして幸か不幸かわからなかったけれども、
彼にとって己が身の内にある正義以外何者もそれにとって代わるころができるはずがない。

「あれ、珍しい。どうしたんですか」

たゆたう思考が外に向けて霧散した。
意識はその声の主に向かう。
弟のような存在、恰も空気のようにごく当たり前に彼はいつも傍にあった。

「早いな、総司」

「土方さんの方こそ」

沖田は土方の隣に腰をかけ、ひとつ咳をした。
緩やかな笑みは土方の失くしたものそのもののような気がして、
沖田のその真っ直ぐさを羨まずにはいられなかった。
その純粋さが人を殺す強さを彼に与えていることも。

土方には純粋さと真っ直ぐさで人は切れない。
そこには必ず恐怖があったし、その恐怖に打ち勝つものも沖田のそれとは違っていた。
心底、沖田が居て良かったと思う。

近藤の純粋さは愚直にも似た真面目さに裏打ちされたものだが、
沖田のそれは誰もが皆過去に置いてきたものだ。
近藤が犬だとすれば沖田は猫だ。
奔放さの中に生きる強さとその生き方を正当化できるだけの純粋さがある。

「俺ァ、今帰りだ」

沖田は少し咽喉で笑った。

「土方さんらしいですね。で、ここで何してたんですか?」

「考え事だよ」

素っ気なく沖田の問いを躱して土方は立ち上がった。

「いい句はできました?」

「そんなんじゃねぇよ」

残りの階段を昇る土方を沖田は追う。
本殿へ進む土方は凛としていて、
けれど普段神仏など恐れぬ彼がそこに居るのはどこか可笑しかった。

「土方さんが自分から神社にお参りするなんて、何だか変だなあ」

「お参りか。そう言われてみればそうだな」

懐から出した賽銭を投げ入れ、土方は二度拍手を打つ。
正式な参り方は二礼二拍手一礼だが、神への敬意を表す礼はしない。
魔を退散させるという拍手だけを打つ。
それはとても土方らしいとも言えた。

「お参り以外に神社で何をするんですか。土方さんは」

土方はその沖田の子供らしさに少し苦笑して、彼の頭を撫でるように軽く二度叩いた。

「てめえはいつもここで子供と遊んでいるだろう」

それはそうですね、と沖田はいるもの無邪気な笑顔を土方に向けた。
本殿に対峙し、土方はその志を再確認する。

士道ニ背キ間敷事。

正正堂堂とあれ、と。 果たして士道とは何か。
明文化されない暗黙の了解事項は時にどんな法よりも掲示よりも強いものだ。
自分にとって一番恐ろしいものは自分の甘さだということを土方は知っている。
自分が自分に科した戒めが結局何よりも強い。
だからこそ、自分の士道に背くことはあってはならない。

臆病者は死ぬ。弱い者も死ぬ。
それは士道を貫かんとする者の、
そして自分の士道を裏切った者の末路に他ならない。
士道を以って生きるには強くなければならない。強く、そして何も恐れることはなく。

「土方さん。立ったまま寝ちゃだめですよ。屯所に帰りましょう。
寝てないんでしょう。眼が真っ赤ですよ」

瞼の重さよりも、思考が段々と闇に落ち、
手探りでないと新しい道を見つけられないことに睡眠不足の不便さを感じる。
闇中の道を進む思考はそうして崖から落ちるのだ。

―――死がもっと安易ではなかったら。

それは土方自身でもある新選組に対する冒涜だ。
土方は自分の投影としての新選組を裏切れない。
否、裏切ったその男は既に元来の土方ではない。別人だ。

「土方さんてば」

浅い眠りから覚醒したように突然明瞭になった意識に
驚きながら土方は呼ぶ声に応える。

「何だ。総司」

違う。死がもっと安易なものではなかったらと願うのは強さへの憧憬だ。
強くあれば、死は、その恐怖はもっと自分の傍から離れていくのではないかと。
死が怖くない者はいない。 如何にしてそれを克服するかだ。

「帰らないんですか。先に帰っちゃいますよ。土方さん」

「ああ、帰る」

踵を返し、歩き出すと、背で神社の鈴と拍手が聞こえる。
しばらくすると土方を小走りに追いかける音がして、沖田が隣に並んだ。

「願懸けか?」

土方がそう問うと沖田ははにかんで土方より二歩前へ出た。

「近藤さんや土方さんが長生きできますようにってお参りですよ」

また咳をして沖田は軽快に下駄の音を、その静寂の中に響かせた。
それは恰も破魔の鐘の音のように早朝の爽やかな空に霧散していく。
また冷たく清らかになったような境内をもう一度振り返り、土方は死を想う。
死はいるも傍にある。それは今だけではない。
生まれ出でて、そして自分がそれに飲み込まれてしまうまで。
常に死はあらゆる場所に存在する。
此処にも其処にも、自分の外にも内にも。

背から聞こえる自分の名に答え、土方はその静寂より足を踏み出した。
火が野原を広がる速さで、死は戦の中を伝播する。
それは止められない。
せめてその火の中で最期まで闘えるように、と。切に願う。

人を切った夜を濯ぐように、土方は深く息を吐いた。
土方は自分の寝床に入るために足を進めた。
寝不足だとどうしても悲観的になる。
自嘲のような笑いを唇に浮かべた。

「おい、総司。ひとつ稽古をつけてやろう」

少し前を行く青年はいつもの笑顔で振り向いた。

「土方さんは寝てください。そんな顔で稽古つけてもらったら、殺されちゃいそうです」

沖田は笑い声を立てる。
その笑い声を聞きながら土方は少し笑った。
何に対しての嘲りでもなく、ただ静かに。
そしてまた土方は自分を強く律する。

―――強くあれ。

星火燎原 了
東緋陰

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