今年もやってまいりました!歳三忌!
去年の総司忌の際、「これからは新選組友の会の会員限定」と
伺っていただけに、最初は半分腰が引けていたのですが、
各方面と情報交換していたら「どうやら行けそう…だぞ?」
ということで、サクサク申し込みして強引に東京入りです(突撃!
またしても会社は休みが取れず、六日と九日に
早退と遅刻の許可だけもらって往復夜行バス利用の無謀計画。
しかしながら今回も心強い同志の方々と一緒に巡察ですv
毎度お馴染みの三太さんと「新撰誠覇」のぺー輔さん。
またまた、お世話になります。よろしくお願い致します!
七日、am7:00、新宿西口着。
二階建てバスの一番前の席でゆったりして来れたので、
わりと爽快な目覚めでしたvラッキー♪
降り立ってみれば、少々肌寒いくらいで生憎の曇り空。
天気予報では雨→晴れということだったので、
どんより雲にはらはらしましたが、ほどなく三太さんと合流。
早速繰り広げられる幕末トークに好調な滑り出しを予感(お手軽です。
毎年恒例になりつつあります朝マックでお腹を満たして
am7:30、雨が降り出さないことを祈りつつ、早速散策開始v
今回、東京メトロ・都営一日乗車券(\1,000)を利用します。
最初に向かいますのは正受院。
松平容保と照姫のお墓が会津に改葬される前にあったという場所です。
am7:50、丸の内線で新宿三丁目下車。徒歩10分程度。
門を入ってすぐ右手に針供養・咳止めの奪衣婆像。幕末に流行したとか。
そのまま右奥手の墓地に入っていきますとイチョウの老木があります。
この近くに容保様と照姫様のお墓があったということです。
区画整備等で往時を偲べないだろうと伺っていたのですが、
塗れた石畳にイチョウの老木が雰囲気を醸し出してくれてました。
さぁ、続きましては池尻橋跡。沖田総司が療養していたという
植木屋が近くにあったと言われています。植木屋平五郎屋敷跡です。
が、この池尻橋…正確な場所がよくわかっていないというのが実情らしく、
事前にぺー輔さんより有力筋の一箇所を教えてもらい足を伸ばしました。
正受院より新宿御苑を迂回して歩くこと30分、am8:25。
御苑の正門前にある歩道橋脇あたり。
新宿御苑は高遠藩内藤家の下屋敷跡ということなので、
大きな御屋敷の斜向かいに植木屋があったということになりますかね?(想像。
とまぁ、二ヶ所続けてコレッといった現物がない史跡だったので
気持ちを切り替えるべく、続きましては板橋へ!
国立競技場駅から大江戸線で春日駅乗換え、三田線で新板橋駅へ移動。
駅から徒歩5分、am9:40。
寿徳寺境外墓地の新選組墓所です。御挨拶をば。
やはり東京に来たら板橋のお参りは行っとかなきゃですねv
他にも参拝者がいらっしゃいましたが、ゆっくり手を合わせてきました。
近藤さん、土方さん、永倉さん、皆さーん、今年も来ましたよー(゚ワ゚)
ということで、次は伝通院へ。清河八郎のお墓参りに。
←この切り換えがガクっときそうですが…(笑
三年前一人で訪ねて行った時にはお参りできなかったので、再訪問です。
新板橋駅より春日・後楽園駅下車。「さぁ上り坂、頑張って上るぞっ」
と気合を入れるも、ぽつりぽつり…と、とうとう雨が降ってきたー(T■T(TワT;
泣く泣く持参した折り畳み傘を開きつつ、えっちらおっちら伝通院へ。
本堂脇に墓地案内の看板が出ていたので早速清河さんのお墓参りをば。
なむなむ…(-‖-)(-‖-)雨やんで欲しい…なむなむ…。。。
八・一八の政変の七卿の内の一人、沢宣嘉さんもこちらにお墓がある
ということだったのですが、残念ながらタイムリミットでまた今度です。
というのも11時に護国寺前でぺー輔さんと合流という予定だったので
急ぎ引き返し、後楽園・春日駅より大江戸線で飯田橋乗換え、
有楽町線で護国寺駅へ。ちょっと遅刻しちゃいましたっ、am11:10。
(゚■゚(゚■゚;お待たせして申し訳ありませんっ。ぺー輔さんと合流。
と、気付けばカラッと晴天。「え?なんでっ??」と
前にもこんなことがあった気が…。。。長州旅行の際の再現のようでした。
←山県有朋が絡むと天候が左右される模様(笑。波長が合うみたい。
そうです、護国寺。今回私の第一目標は山田顕義のお墓参り。
なのですが、それとくっついて山県有朋もセットです。
もう、最近読みたての『五稜郭を落とした男』の影響がギンギンです(笑
とまぁ、ウキウキしつつ、手前からぺー輔さんに案内して頂きました。
護国寺は五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いで創建した祈願寺で、
明治期以降に徳川家との関係が絶たれて著名人等の墓所となった場所らしいです。
まずは境内右手側手前から。
土佐勤王党の生き残りの田中光顕、清岡公張。
そして早稲田大学創設者、大隈重信→。
…どれもこれも、整備された広い敷地に大きな墓石でビックリ。
錠付き柵門の間からだったり、見上げながら合掌させて頂きました。
そしてそしてっお待たせっ!山田顕義→vお参りにきましたよー○(T▼T)○
残念ながら墓所は凄い手前で鎖錠が掛けられていたので遠目に合掌。
一跨ぎできちゃう鎖錠にウルウルしてましたが、
「ここで跨いじゃったら沖田さんの非常識ファンと同類ですよね」
という三太さんの御言葉に「そうだっ」と、グッと我慢です。
ちょっと遠いけど、御冥福を祈ってますーっ!←精一杯の合掌。
といった具合に猛烈なラブコールを市ぃに送ってから、
続きまして山県有朋→へ。境内裏手の奥の方。
ぺー輔さんに案内して頂きながら、
とりあえず山県さんの墓地を一周。。。
「人に見せる為に立てているわけではないので…」と言われる通り、
墓地の石壁と垣根の木々にに阻まれて
「側面すらも良く見えない…」という状態。
「山県さんなら俺を見てくれーっ!って感じなのに…」
「チラリズムを楽しんでいるのか!?」
なんて言いながら、石壁の隙間から合唱していると、
そこに墓地の管理をされている方が偶然居合わせて
「掃除もあるから入っていいですよ」と
錠前を開けて下さいました。ぃやったーぁvvv
やはりガタはファンには寛容ですv(^ワ^(^▼^(^ワ^)
「こんな…入らせて頂けるなんて初めてですよ」とぺー輔さん。
やや興奮気味の三人。ばっちり取材(笑)してきましたv
山県さんへじっくり念入りに手を合わせ終われば、
先程の管理人さんが隣も案内して下さって、
大成建設を設立された大倉喜八郎さんの墓地も
錠前を開けて下さいました。元は大倉組商会ですね。
それに東京駅を設計した方のお師匠様(?)コンドルさんも
こちらの護国寺にお墓があるんですよ、と教えて下さいました。
どうも、東京駅って今度改装されちゃうそうで?
あの赤レンガの建物は今が見納めだと伺いました。(0◆0;
管理人さんに重ねて御礼を述べてから、
続いてお参りに向かいましたのは南部家の墓地。
南部利剛(としひさ)のお墓参りです。
鳥居や狛犬が墓地にありお寺なのに神式の墓所です。
南部盛岡藩は、御存知戊辰戦争時、
奥羽越列藩同盟に参加し敗北した一藩。
その時の藩主が南部利剛さんでした。
『壬生義士伝』でも出てましたね。。。うぅぅ(思い出し泣き。
次に向かいますは谷口四郎兵衛のお墓。
「え?何方ですか…??」←拙者まだまだ初心者です。
元新撰組隊士ということで、ぺー輔さん曰く
「どさくさ隊士」笑。というのも、北越戦争では転戦後、
仙台で新撰組に入隊した元桑名藩士なんですって。
箱館総攻撃の折りには弁天台場に布陣していたとのこと。
そうなんだ〜(σ"ワ")σメモメモ。
で、墓所ですが、護国寺墓地からちょっと外れます。
といってもほぼ同寺内なのですが、正確には護国寺共葬墓地。
四通目の道路側に面してありました。合掌。。。
さて。これで護国寺はとりあえず回れました!
続きましては智香寺へ。田村銀之助のお墓参りです(^^)
去年の総司忌の折りにもお墓参りに行ったのですが、
地図で見たところ歩けそうだったので、てくてく行くことに。
護国寺から徒歩20分程度でしょうか。am12:40。
半年ちょっとぶりにまた来れるなんて嬉しい限りですv
が、今回はよからぬことに…
「史談会の『春日養父』発言は真に受けてはならない」
の一言が頭をちらつき…(>T■T)>むぁ〜っ腐女子思考がっ(嘆
「ご、御本人の前でっ、はっ、はっ、、、恥かしいぃっ!!」
と、一人脳内で悶絶してました。
←判らない方は判らないままの方が無難なので突っ込まないで下さいねv
で。気を取り直して次っ。白山4丁目にあります寂円寺へ。
地図を頼りに智香寺から徒歩20分ちょっと。
pm1:15、今井信郎のお墓参りです。
今井さんといえば京都見廻組で有名ですね。
やはり竜馬ファン因縁の方になりますでしょうか。。。
お寺の方に尋ねると案内してくださいました。
…何処にも今井信郎の名前がないので一見わかりません。
が、綺麗にされてたのでホッとしました。
というのも、一昨年の十二月、
「新撰誠覇」の大阪オフ会に参加させて頂いた際に、
同じく京都見廻組の桂早之助、渡邉吉太郎のお墓参りに
行きましたが、彼らは無縁仏だったので…。しんみり、合掌。
と。失礼ながら今井さんの前でとりあえず小休憩。
水分補給ーっ(-д-;(-д-;(-д-;ぐびぐびーっ(茶。
歩いてきたこともありますが、日中になって急激に上がった
気温にまいってしまい、今朝とは打って変わっての蒸し暑さ。
暑い〜、、、とちょっとへろりながらpm1:45。
次は斜向かいの吉寺。榎本武揚、板倉勝静のお墓参りです。
道中、五稜郭の開城に先立って箱館を脱走して
東京に出た板倉さんの禁錮に至る経緯を教えて貰ったのですが、
板倉さんはここ吉寺で隠れていた時、
食事に刺身などを出前で注文して持って来させていたところ、
出前人が「寺に生臭?」と不信がって警察に通報、
そして即御用となったということでした。。。なんとも間抜けな…。
元備中松山藩主、寺坊主の事情は考慮できなかったのでしょうか。
そんな板倉さんのおっきな碑は経蔵前にあります。
そして墓所には家紋の九曜巴。巴紋が九つ。面白〜いv
そして榎本さんのお墓はといえば、
境内左手奥の大きめな墓地。→
飾り気のないお墓がなんだか寂しく思われました。
箱館戦争のことを歳さんサイドから思うと、
やるせなさばかりがつのるのですが、
こうして御本人を前に萎縮してしまいました。。。
そこかしこで「釜さん嫌い嫌い」て言って御免なさいっ(0_0;合掌。
でもやっぱりまだ好きになれません…。なむなむ。
そんな具合に悶々としてましたら、二宮尊徳…
そうです、二宮金次郎のお墓を発見!→
「え!?二宮金次郎て薪背負って本読んでる像で有名な人よね??」
と、いきなりでびっくり。…てか、それぐらいしか知らないですよね。
拙者の通っていた学校には二宮金次郎の
像はなかったのですが、皆さんの学校にはありましたか?
全国各地に彼の象がありますが、全部同じかと思えばそうでもない
って御存知ですか?背負ってる薪の数とか、違うらしいですよ(3へぇ。
そんな不意打ちをくらいつつ、吉寺から徒歩10分程度、
続いて高林寺へ。pm2:20、緒方洪庵のお墓参りです。
緒方先生のお墓参りは大阪も伺いましたが、
「大阪と東京の両方をお参りした人はそういないだろう」
ということで、自慢になりますよ♪と、ぺー輔さん(笑
拙者はちょうど「陽だまりの樹」をアニメで見ていた
ところだったので、タイムリー(?)なお墓参りになりました。合掌。
そしてまたまた徒歩10分圏内で、続いて光源寺へ。
pm2:55、甲賀源吾の墓参りです。
こちらにはお墓と顕彰碑があるということで、訪問前に
ぺー輔さんより碑が建てられた当時の写真を見せて頂いて
「今との違いを見てきましょう」と伺いました。
どうも改築工事中のようで、何処も彼処も角材が積まれて
いたる所が掘り返されており、「お参りできないのかな?」
と不安に思って入り口あたりでうろうろしていると、
拙者達に気付いてくださったお寺の方が「どうぞ」と
案内してくださいました。よかったー(^ワ^(^―^(^―^)
こちらは無断だと警察に通報されるそうなので要注意です。
寺務所の裏手、甲賀源吾の碑がありました。
割れた上部二欠片。壁に立て掛けられてありました。
「え!?なんで割れてんですか!?」とオロオロしてたら
そこにお寺の大奥様が御挨拶に出て来てくださいました。
「それは空襲で爆弾が落ちて来た時に割れてしまったんですよ」
と、当時の御話を聞かせてくださいました。
この甲賀さんの碑は、元はお寺を入って右手側にあった
ということで、その碑の下には防空壕が掘られていて、
大奥様は空襲に備えて、その防空壕の中に隠れていたそうです。
その時、「バーンッ!!」と、爆弾が碑を直撃。
碑は砕けてしまいましたが、防空壕は無傷で助かったとのこと。
「甲賀さんの碑が守ってくれたんですよ」と語って下さいました。
墓地を見回せば、空襲で焼けてしまったという
真っ黒な墓石がたくさんあって、そんな中で
「生き残れたのは甲賀さんの碑があったから」と
語られる大奥様の御話は凄く現実味のあるものでした。
また、墓地の奥手にある甲賀さんのお墓参りも
させて頂きましたが、こちらも空襲で焼けたのでしょうか。
黒く表面がポソポソとした墓石で、大きく立派なものでしたが
痛々しいお墓でした。御冥福をお祈り致します。合掌。
最後に大奥様が甲賀源吾に関する書籍を沢山出してきて下さり
拝見させて頂きました。もう今では手に入らないという本から
東京新聞の切抜きなど、時代を感じさせるものばかり。
凄く貴重なものを沢山見せて頂きました。ありがとうございます!
感動で胸をいっぱいにしながら、また徒歩10分圏内。
次は大林寺。松平太郎のお墓参りです。
pm3:29、西日に変わる太陽がまぶしいくらいでしたが、
お寺の中は木が鬱蒼と茂っていて、石畳は濡れており
危うくすっころびそうになりました(/゚д゚)」…セーフ。
太郎さんのお墓は真っ直ぐ参道を奥まで歩いて
左に振り返ればちょこんとありました。なむなむ…、合掌。
「嗚呼、今日は本当にいっぱい戊辰戦争関係の方達の
お墓参りしているな〜。皆さん一緒にくっ憑いて来て
同窓会でもし始めそうだなぁ…。」なんて考えてました。。。
ならばもっと人数は多い方がいいですよね(笑
ということで、次に向けて電車移動〜。
本駒込駅から南北線で後楽園・春日で乗り換え、
大江戸線で上野御徒町・仲御徒町で乗り換え、
日比谷線で三ノ輪駅へ。目指すは円通寺。
pm4:25。三年ぶりの訪問です。
前回お参りに来た時には「猛犬注意」のぷんすかぷんな
一件があったので(巡察「2002.6.22〜24 総司忌 参照)(゚_゚)
が、2004.7.29に円通寺様より墓所の柵について
お知らせを頂きましたので、この機会に訪問することに。
が、さすがにレポでがぁがぁ言ってたので引け目があり
寺務所へはぺー輔さんに顔出しして頂いて、入柵。
三年前の記憶を手繰れば荒れ荒れして皆さんに申し訳なく、
気持ちを切り換えて改めてお参りさせて頂きました。
彰義隊のお墓をはじめ、こちらにも松平太郎のお墓が。
そして墓碑の裏面に土方さんをはじめ甲賀さんや
中島三郎助、伊庭八郎など名前が連なる死節之墓→。
そしてバラバラと林立する追弔碑の数々。
大鳥圭介→、榎本武揚、新井郁之介、高松凌雲らの追弔碑。
また、上野戦争での伽藍の防火や、慶喜の謹慎先で警護を務めた
江戸の町火消、新門辰五郎の碑もあります。
侠客の繋がりで清水の次郎長親分とも知縁だったとか?
そして小芝長之助の墓→。
小芝さんといえば、土方さんの遺体を五稜郭から引き取りの
使者として赴いたという記録がある方ですね。
そして晩年はこちらの円通寺で墓守をされていたとか。
辰五郎大親分の碑の後にこそっと忍んでます。
ゆっくりじっくりお参りさせて頂きました。(-‖-(-‖-(-‖-)
拙者、次にお参りする時はもう少し気持ちも落ち着かせて
伺いたいと思います。なむなむ…。でも今回来れてよかったです(爽。
さて日も傾いてきましたが、円通寺から歩くこと10分。
pm5:00、回向院へ。
橋本左内や松陰先生らのお墓参りに訪ねたのですが
残念ながら門が閉まってて、お寺の方も御不在だったのでスルー。
そして隣の延命寺、小塚原刑場跡へ行ってきました。
訪ねるまでにさんざん脅され来たので、かなり引き腰だったのですが
やはり門を入る前から空気が違うように感じられて怖かったです(゚m゚;
お墓参りは毎度のことですが「御数珠は必須」と再認識した次第です。
おっきな(おっかない)首切り地蔵を背に、
逃げるようにその場を後にしました。首切りいやーっ(/T■T)/。
が、あともう一箇所。本日最後の史跡巡りですが、
締め括りもやっぱり刑場跡ーっ。(゚■゚(゚◆゚(゚■゚;
「誰よっこのコース考えたのっ、、、」
「雰囲気抜群じゃないさっ、、、」
「(自分だろ自分…)、、、」などと思い思い、
向かいますは江戸伝馬町処刑場跡、十思(じっし)公園です。
南先住駅から日比谷線で小伝馬町駅へ。
pm5:20、まだ子供たちが公園で遊んでいました。
公園の右手側に松陰関連の碑が並んでいます。
終焉之地碑、顕彰碑、そして辞世の碑。
ここらの4ブロックくらいの一角は小伝馬江戸牢屋敷が
あった場所で、未決囚の収容所になっていました。
取り調べの為に一時的に留置しておく所です。刑務所ですね。
しかし、裁きで死刑とされれば即執行…というわけで、
斬首刑は牢屋敷の一角で執行されたそうで、その執行場所が
公園正面に赤字で「江戸伝馬町処刑場跡」と書かれている
大安楽寺がある場所だそうです。。。
安政の大獄では、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など、
約50人がここで処刑されているといいます。
見せしめ処刑や獄門・さらし首が行われたのが小塚原刑場
らしいです、、、(嗚呼…綴っていて気分が悪くなってきました(TmT。
でも最後に一言。安政の大獄で有名ですが、
それまでにも沢山の人がここで裁かれているわけで、、、
この場所が牢屋敷であった二百数十年の間、
毎年百人を越える斬首刑が執行されたということですよ。うわーん。
そんな中で、公園のベンチに腰掛けて明日の打ち合わせ
などを始める三人。。。気付けば誰もいなくなてました(怖。
そんなわけで、今晩は銀座に宿を取り、
夕食会では三人して熱い幕末談義に酔い痴れ(皆酔ってる×2、
銀座のスターバックスはソファ設えでゴージャスさに驚きつつ、
今回も三太さんと同室で歳さんをネタに萌話に花を咲かせ、
四時に床入り。。。いやん(゚▼゚)w(゚▼゚)
ぺー輔さんにはお泊りの度に言われ続けている
「足の親指持ち上げ夜這い術 by.燃えよ剣」は
今回も試すことができませんでした…。さすがに疲労困憊(ぱたり。
明日は一年ぶりの日野v歳さん待っててねーvと
歳さんの夢が見れたら最高だったのですが、夢すら見る余裕もなく
泥のように眠りこけた次第でした。。。("〜")("〜")くか〜。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
さて、四時間後のam8:00起床(笑。清々しい朝です(爽。
9時半宿をチェックアウト後、銀座から東京駅まで徒歩で移動。
駅のホームから赤レンガを見納めなんだね〜と伺いつつ、新宿へ移動。
とりあえず「お昼食べれるか分からないし…」と朝食を掻き込み、
続けて京王線で高幡不動まで移動。am11:40。
ここで三太さんが約束されてました、すばるさんと合流v
今日一日よろしくおねがいしますっ(^―^(^▼^(^ワ^(^ー^)
さっそく向かいますは高幡不動尊。
歳さんの像と殉節両雄之碑をカメラに収めて、御祭ムードな賑わいを背に、
続きまして石田寺へvてくてく徒歩20分。
少しいつもより遅めの到着だったので、
もう法要は終わっていて人もまばら。静かに御参りできましたv
「歳さん、今年も来ましたよ〜(…御疲れみたいですね。」
沢山の方が御参りされた後だったので、墓前に控えた時
そんなふうに思いました(゚〜゚)なので合掌して長居はせず退きました。
皆もそれぞれ御参りして、気分は高揚しつつ続いて土方歳三資料館へ。
「参拝客も少なかったし、そんなに混んでないかもよ?」なんて
淡い期待をしつつam12:15。まんまと長蛇の列でした(甘かった!
そそくさと列の後尾に自分達も続き、
ふと門内を覗き込めば「あれっ、歳さん!?(゚▲゚(゚◆゚;」とびっくり。
前まで資料館入り口の脇に置かれていた
ベートーベンもどきな歳さんの胸像が、
手前の植木の所に移動されてありました。「あら〜??(゚▲゚(゚◆゚;」
ネットで聞き知ってはいたのですが、
どうも資料館がリニューアルオープンした際に移動されたようですね。
さて、そんな新しくなった資料館ですが、入ってこれまたビックリ!
「資料館チックになってるーっ(゚◆゚("▼"(゚◆゚("▼"!」
これまで畳敷きだったのがフローリングに張り替えられて
しかも部屋の大きさがこれまでの三倍!!
加えて展示物も、会津の白虎隊記念館に出張していたものが帰ってきていたり、
復元された土方家の模型が展示されていたり、、、凄い賑やかーっ♪
アットホームさがなくなってちょっと寂しい感じもしましたが、
歳さんと共に戦った鎖帷子も近くに戻ってきて兼定は嬉しいだろうな…
なんて思ったら嬉しくなりました♪今日も抜き身を拝ませて頂きましたv
とまぁ、浸りつつも大入満員状態の資料館にそうそう長居もできず、
人の流れに押し出されるようにして退場。。。嗚呼…また来年ね〜(寂。
そのまままた来た道を取って返して高幡不動尊へ。am12:45。
今回の講演は土方歳三六代目子孫、土方愛さんの御話とのこと♪
少し時間があったので、ぺー輔さんは先に席を確保しに先行して頂き、
拙者達はとりあえず手前の土産物屋さんを物色v
三太さんやすばるさんは抱き人形を購入。
拙者は残念ながらキュピーンとくる一品が見つけられず、
新人物の新刊に期待しよう♪と思い直していると、早々にペー輔さんより
「始まる!」とのお知らせメールがっ(゚■゚(゚▲゚(゚■゚;きゃーっ!!
急ぎ全力疾走で会場に向かうべくダーッシュ!!
「D×Iさん早っ!待って〜っ(T▼T(T▼T。」と
三太さんとすばるさんの声に振り返れば、
拙者先行して走ってました。。。うぉっとぉ(驚。
普段運動音痴なんですが、歳さんの為なら運動神経が繋がるようです(愛の力!
そんなわけで上がった息もそのままに会場入り。
ぺー輔さんにお礼を述べつつ着席すれば間もなく講演開始v
まずは『散華土方歳三』より朗読。『散華〜』が再販されるらしいですねv
続いて、待ってましたっv土方愛さんの御話。
今度売り出される『子孫が語る土方歳三』の先行販売を兼ね、
そこからの御話や補足話を御話くださいました。
まずは先の四月七日。愛さんの祖父康さんの御命日に
歳さんと戊辰の戦没者の御供養で、各方面の関係者の方たちと共に
悲願であった「歳さんの御魂を日野へ帰そう計画」が実行された報告を伺いました。
内容は歳さんが戦死した、埋葬されたと言われている例の五ヶ所の土を
日野へ持ち帰り、ちゃんと招魂して御供養されたということで。
136年経ってやっと歳さんは故郷へ帰ることができたわけです(感動っ!
愛さんも重ねて何度もお礼の御言葉を方々へ述べられていましたが、
本当にこの計画はその年月を思えば凄いことですよね。
ということで歳さんが日野に帰って今年は最初の法要ということだったので
「あちゃ〜、、、もちょっと早く知っていれば…。」と思った次第。けど、
公にしなかったのは大事に取り沙汰されるのを憚って秘密裏に行われたとのこと。
そうですよね。静かに御親類の方々の手で遂行されて良かったと思います(^―^)
「歳さん、これからは日野で安らかに、御冥福をお祈りします。(なむなむ。」
と、改めてこの場でお祈りしました。
さて、「歳さんの御魂帰郷計画」の報告の後、御話はその計画のきっかけとなった
資料を発見した経緯やその内容、さらにそこから推測される歳さんの最期の推測等、
ホップステップジャンプ調にどきどきする御話が展開。さわりだけ綴りましょうv
(大筋は『子孫が語る土方歳三』に綴られてありますので是非皆さんも読んでみて♪)
まずは土方歳三資料館に帰ってきた、資料より天然理心流の木刀について。
どのようなものだったかを説明してくださいました。
天然理心流の木刀は、腕力と握力を鍛える為にぶっとくて重いことは有名ですが、
あの木刀の“鍔”って何で出来ているか御存知でしょうか?
現物を見れば一目瞭然なんですが、実はあれ“皮”が使われてるんですって。
「木にしては柔らかそうに見えたのよね〜(納得。」(゚〜゚)
そして柄ですが1尺2寸5分あるその先っちょに“義”という文字が彫られています。
これは土方家男児の諱で、土方家が源氏の流をくんでいることによるとのことでした。
そしてこの木刀は歳さんだけでなく、土方家の誰もが
天然理心流の稽古に励む際に用いたということでした。
また木刀は一律ではなく、その家々によって大きさも長さもばらばらだったとのこと。
個人に合わせた結構アバウトな修行だったように思われます。
次に石田散薬について。いつだったか聞き知ってはいたのですが、
どうやら今も東京薬科大学にて石田散薬が研究され復元計画が遂行されているとか。
日野でも年に一度、石田散薬を作る催しがあるとかで。作っちゃってるみたいですよv
愛さん曰く、家伝薬ということで家秘・一子相伝の製法があったそうなんですが、
家の敷地に設けられた木小屋(石田散薬製造所)へは女子供の立ち入りは禁じられて
男児のみがその製法を受け継いだということです。
実際にその最後の作り手が愛さんの祖父康さんだったということなのですが、
一子相伝の技術を現代医学の科学技術で解き明かされる日は近いかもしれません。
話は変わって、土方歳三死後の処置状況について。
室蘭警察署警官加藤福太郎氏の平忠次郎氏への手紙をもとに御説明頂きました。
この書簡、平さんが後に土方家に届けた手紙ということで葛篭の中から
発見されたということなのですが、衝撃的なことが多々綴られてあります。
歳さんからみると曾祖母の千代さんが平家の方で、
平忠次郎さんはその当時の平家御当主とのこと。
この親類関係であったことから、その手紙が土方家にもたらされたということなのですが、
贈り主の加藤福太郎さんというのは、平家が養蚕の伝習所を開いていたので、
その生徒か友人だったのではないかと推察されているとのこと。
さて、その手紙の内容ですが興味深いところを一箇所御紹介。
碧血碑についてなのですが、榎本武揚がロシアから帰国の際、
函館に寄った時語ったという話で、
「碧血碑は数ある戦死者の中でももっとも土方君に重きを置いた、
早くいわば“土方君の為に建てたるもの”と言っても差し支えない」
というくだり。そこまで言ってくれますか釜さんっ!(゚■゚;
それと並行して函館・東京碧血会関係者の写真資料を見ながら
「嗚呼…本当に歳さんは皆に愛されているのだろうな…」と感動しましたv
続きまして実行寺の過去帳について。
実行寺といえば柳川熊吉さんが実行寺の住職さんと図って、
旧幕府軍戦死者の遺体を集めて埋葬したという御話もありますし、
過去帳についても箱館戦争の研究サイドから結構知られているお話。
その現存している過去帳には、伊庭八郎、諏訪常吉、春日左衛門らの名前も
記されているそうなのですが、これが本当に実際その時タイムリーに
綴られた物かといえば、そうではない、ということで信頼度が二分される代物。
お寺の過去帳とは時系列にその時あったことをそのまま淡々と
綴られる物なのだそうですが、この過去帳は書き改められた物だということ。
というのは、歳さんの記述が明らかに特別に綴られているということで、
最後の頁に経歴なども含めて書かれてあり、淡々さがないんですって。
また歳さんの戒名についてなんですが、今回の愛さんの御話によれば、
高幡不動尊に持ち帰った歳さんの戒名は称名寺から授かったもの
ということで伺ってきましたが、これまたちょっとややこしい。。。
称名寺は浄土宗で、浄土宗は戒名に“誉”の字が必要なんだそうですが、
歳さんの戒名「歳進院誠山義豊大居士」には“誉”の字がないことから、
称名寺が当時歳さんを葬ることが難しかったことがわかると御話してくださいました。
歳さんの戒名(法名)といえば石田寺では「歳進院殿誠山義豊大居士」ですね。
他にも「有統院殿鉄心日現居士」(実行寺)、「広長院釈義操」(能量寺)
があったり…これって政府軍を撒くためのカモフラージュですか!?フェイク!?
…とまぁ、他にも色々とドキドキハラハラな御話がテンコモリでしたv
愛さんの御話の後には割れんばかりの大拍手。スタンディングオベーション(な気分でv
貴重な御話ありがとうございました!文句なしで素晴らしかったです!!ぶらぼー!!
その後は関係者各位からの御挨拶だったのですが、面白い御話を一件御紹介v
御名前は損じてしまったのですが、とある女性の方Sさんの御話。
どうも会社関係でコンパ(?)をするということで、その方が幕末好きということで
友人が「幕末関係者の知り合いがいるから呼んでおくよv」と言われたのに対し、
この席に参加している方なら誰もが東軍派の方を期待しちゃうところですが!
なんと当日その席に参加されたのは、こともあろうか世良修蔵ゆかりの方…。
ショーック!…ということでしたが、一層興味深かったのはこの続き。
その方のもう片親の筋は田村家つながりということで、
あの忠臣蔵にある浅野内匠頭が切腹した家の方とのこと。
そこでちょっと忠臣蔵談義。
松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭の身柄は、
一関藩主田村右京大夫建顕に預けられ、将軍徳川綱吉の命により即日切腹。
という運びだったようなのですが、
「なぜ田村家だったのか」というのをSさんは調べられたそうで、、、
どうも松の廊下事件があった時、とりあえず浅野内匠頭の
身柄預かりが出来る“浅野家に所縁のない者”を探していた際、
ちょうど留守居役でそこにいた田村さんが
御上の遣いが「誰か居らぬか?」と来た時に、
「はーい」と返事をしてしまったのが運の尽きだったとのこと。
「浅野家に所縁はないか。ならばその方でよかろう。」ということで
あれよあれよという間に切腹の場まで提供させられるハメになったんですって。
縁の不思議と言いましょうか、世間の狭さを感じた次第です。
さて、最後は毎年恒例の抽選会ですが、今回当選籤はイイ商品からだされて、
拙者はブービー賞。本来ならば番傘か書籍だったところなんですが(こなくそ〜っ!
源さんの判子を頂きました。むむむ、空クジじゃなかっただけよしとしておこう。
といったところで、講演会終了後早々に『子孫が語る土方歳三』を購入v
そしてちゃっかりその場で愛さんにサイン入れてもらいましたv
ずけずけと一番乗り。気付けば長蛇の列になってましたよ(笑。ありがとうございますv
ゆるゆると御開きの後、御土産に毎度お馴染みの歳三まんじゅうを購入。
大変盛り上がった歳三談義の熱も冷めないうちに、
残念ながらすばるさんとは高幡不動駅でお別れして、
拙者と三太さんとペー輔さんは今回二次会も参加すべく飲み屋へ雪崩れ込み。
初めての二次会参加だったので「どんなことするんだろう??」と
三太さんと二人してすみっちょにちょこんと控えていたのですが、
ラッキーなことに菊池先生が同席してくださり、色々御話を聞かせてくださいましたv
それに大出様にもお名刺を頂いたり、なんかもうアワアワしっぱなしでした(小心者。
良い加減で七時半頃御開きとなり、拙者は夜行バスの時間が迫っていたので
そのまま新宿まで取って返して、三太さんとぺー輔さんに見送って頂いて
帰阪の途につきました。今回も本当に御世話になりました(^▼^)/
そして今年も無事、歳三忌に参加できて良かったです!御疲れ様でした♪
次回は総司忌ですねv また皆さん宜しくお願いしますっ!!
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