今回はそら色のだんだらの大阪オフ会に参加してきました!
拙者は朝一で私用があった為に最初から参加することが出来ず、
上本町から移動して四天王寺前夕陽丘駅でAM11:00、そら太さんとひろえさんに合流。
御二人はまず最初に阿倍野墓地で長州藩士の鳥羽伏見の戦いの際の
招魂碑や顕彰碑などを御参りしてきたそうです。拙者も次回はっ(゚0゚)
で、早速夕陽丘周辺を散策。まずは陸奥宗光の清地蔵をスルーして
「燃えよ剣」のあの夕陽丘へ。前に訪れた際は一人で歩いたのでびくびくものでしたが、
やはりいかがわしい場所には変わりなく、ここらは日の高いうちに訪ねるべきだと改めて思いましたよ(笑
みれば脇に備え付けの説明書があったのでせしめて行きました。
で、次に大江神社に向かいました。夕陽丘から西へ徒歩五分程度。
どうも時期柄、阪神タイガースの優勝祈願がされたようで、、、
一角が虎だらけになってました(゚ヮ゚;
で、この神社の下手に長州の「旧山口藩殉難諸氏招魂之碑」がある
というので、社務所の方に確認をとってから訪ねてきました。
一般者立ち入り禁止ということなので気を付けましょう。
前に大江神社を訪ねた際には西正面から訪ねたので、
鳥居から続くなっがい階段を上ったので凄く大変でしたが、
今回は東側から訪ねた為に階段は下りで助かりました(TヮT)
階段途中にホームレス対策で設けられた柵をすり抜け、真横にのびる
雑草茫々の間道を進めば、ありました。ぬっと聳え立つ招魂碑。
そら太さんに伺えば、もともと霊山のものもここにあったのだとか。
AM11:40。そのまま階段を下り、次に訪ねたのは万福寺。新撰組大阪屯所跡ですね。
何も残ってないのが実に残念ですが、今回も入り込んでうろちょろ。←不信人物三人。
そのまま松屋町筋を北上して、PM12:20、そら太さんのナビで次に尋ねたのが大仙寺と妙法寺。
こちらは伊庭八郎の大阪での宿舎だったとのこと。大仙寺には当時を偲ぶ面影はないですが、
妙法寺はとても立派なお寺でした。伊庭八郎はまだまだ勉強途中なので、
大阪にこんな史跡があるとは知りませんでした。。。
と、ここで昼ごはんを近くのうどん屋さんにてカレーうどんを食してエネルギー充填。
PM1:35。水分補給もして引き続きそら太さんのナビで次に足を向けたのは
「ぜんざいや事件」跡。石蔵屋跡です。
この事件は土佐浪士たちによる大阪城焼討ち計画を未然に防いだ
谷三十郎・万太郎兄弟らの手柄でした。が、悲しいかな。。。
「勝てば官軍」ってわけで碑に綴られているのは「贈正五位大利鼎吉遭難之地」。むぅ。
しかしこの石蔵屋跡碑、これまでずっと一人で探しては見つけることが出来ず、、、
今回やっと当地を訪ねることが出来たのですが、
普通に道端にぽつんと碑が立っていました(T_T)…あの苦労は一体。。。うえーん。
さて、ここから電車移動して、谷町四丁目下車。
PM2:00。次に尋ねたのは大村益次郎殉難の碑。
大阪病院脇に碑があります。すごく大きいです。
明治二年(1869)九月、京都で不平士族に襲われた際の
遭難の地碑が京都の高瀬川沿いにありますが、
大村益次郎の亡くなった場所は大阪なんですね(゚_゚)
で、大阪城を左手に見てちょっとNHKに立ち寄って来ました。
もち、大河関係のものを物色しに(笑)が、残念ながら
この時はまだ武蔵関係のものしかなく、、、
ふと空を見上げれば空一面にひろがる鱗雲。
ちょっと驚きだったので写真撮ってみました→
NHK大阪放送局を後に大阪府庁横でセイミ研究所跡をみて、
PM2:30。天満橋手前で大阪商工会議所とマイドームおおさかの
間にある五代友厚らの銅像をみに行きました。因みに、マイドーム
おおさかの場所は大阪西町奉行所跡で碑も立ってますよv
なもんで、会社で此方の方と御話する時はどうしても
役所の方を与力様に見立てて想像してしまい、、、はわ〜。
そんな御馬鹿な御話もそこそこに、さらに北へ歩き続けて
PM2:40。訪ねたのは大釣鐘。
釣鐘町に幕末期から永らく時刻を知らせる鐘であったようで、
今は自動的に鳴るようになっているそうです。
さらに歩き続けて、そのまま天満橋駅の方へ。PM2:50。
八軒屋船着場跡碑があります。坂本龍馬や西郷隆盛ら多くの志士も
この船着場を利用したといいます。が、ここから徳川慶喜も
鳥羽伏見の戦いの際に天保山へ向かったのでしょうね。。。
ここにも脇に備え付けの説明書があったのでせしめて行きました。
天満橋から西へ北浜に向かってさらに歩き、PM3:15。
今橋平野屋の碑を発見。新選組の活動資金として
この平野屋から百両を調達した際の土方、沖田、
永倉、野口の名で借用書が残っているそうで。
この資金でだんだら羽織を作ったという両替商ですな。
碑には「天五に平五 十兵衛横丁」とありますが、
これは…通称? そうそう、鳥羽伏見の戦いの後、
大坂へ来た隊士達が休息していた先の八軒屋船着場で
平野屋さんは炊き出しをしてくれたそうですね。
で、そしてもう少し先の鴻池本宅跡も尋ねました。
徒歩三分程度です。北浜郵便局の正面にあたります。
鴻池からは二百両借り入れ資金としてますね。。。
そこからそのまま淀屋橋の方へ進路を変えて
適塾を訪問。緒方洪庵が開いた私塾です。
蘭学や西洋医学を教えていたということで、
橋本左内、大村益次郎、大鳥圭介、福沢諭吉などなど、
幕末、明治で活躍した多くの人材を輩出した場所です。
どうしたわけか最近まで大鳥圭介を失念していまして、
適塾内に大鳥さんの書があって「どうしてあるんだ?」
などとボケたことを言って笑われてしまいましたよ(^ヮ^ゞ
で、これは見逃せないだろうってのがこの柱!
すごい刀傷だらけ…というか削られすぎて柱としては大ピンチ
な状態だと思われるのですが、、、説明書きには「溢れる若き情熱の所業…云々」
といったようなことが書かれていましたが、これを見る限り新撰組より適塾生の方が
よっぽどタチ悪いと思いませんか??八木邸なんかに残っている刀傷を比べれば
あんなの可愛いものですよ。ねぇ?(笑。
さて、見る場所をすっかり違えていますが、まだまだ歩き続けて
淀屋橋から梅田に北上して大江橋を渡り終えたところに蜆橋跡を発見!!
「あっれ〜!?(゚ヮ゚;)…あれっあれれ!?」と拙者、開いた口が塞がりませんでしたよ。
この蜆橋跡も先の石蔵屋跡同様に一人で一生懸命探していたのですが、
この場所は通勤でもよく通る場所で、何で今まで気付かなかったのかと悶絶。。。
こちら芹沢、沖田、斉藤らと大阪相撲の力士たちが、狭い道を譲る譲らないの
押し問答の末乱闘をおこし、力士の熊川を斬り殺したという事件が起きた場所です。
ぬあ〜。最近の史跡MAPって凄く便利ですね〜(TヮT)
もうこれからは住所で調べたりしなくてもいいっすね〜(泣。
と、そこでまた空を見上げてみれば昼間の鱗雲がこんなふうに…(゚ヮ゚)→綺麗でした。
PM4:15。起伏はそれほどない道程でしたが、いい加減歩きつかれたこともあり
少々近くの喫茶店で、ひろえさんとそら太さんから拙者の過去の無駄な労力消費を
なぐさめてもらいつつ…(T▼T)一息ついて、もう一踏ん張りっ!
そこから西へ肥後橋まで歩を進め、新撰組が拠点とした町会所の
そばの(多分…何もありません。)土佐堀川にかかる常安橋を背に、PM5:25。
長州藩邸蔵屋敷跡の開運山長州大師高野寺を訪問。
が、当時を偲ぶようなものはなかったのが残念。
近くの交差点に長州藩邸を示す碑もありました。
そこからワンブロックほどさらに歩いて大村益次郎寓居の跡へ。
村田蔵六(大村益次郎)は嘉永二年(1849)から、この倉敷屋作衛門宅に住み
適塾に通っていたというので、我々も実際に歩いてみてその距離感を実感しました。
さてここですでに時間はPM5:40。ひろえさんとはここでお別れ。
が、当初の旅程では残すところあと一ヶ所!ここは行っておこうかっ!
と、力み勇んでさらにそら太さんと向かった先は天保山!
バスで移動すること40分。天保山は日本一低い山とは聞いていたものの、
知らぬうちに登頂してしまいましたよ。登頂記念に写真を一枚(笑。
徳川慶喜がここから江戸に帰った場所です。というわけで、
天保山碑があるというので碑をさがして真っ暗な公園内を
二人してうろうろ。。。何方かの銅像やら(暗くて説明書きの
文章判読不能…)明治天皇観艦の碑やらに惑わされながら、
探し続けること10分。公園東側の入り口すぐのところに
天保山跡碑がありました!PM6:35。これにて旅程完遂(^ヮ^)>
とことん歩き続けた一日でした!万歩計つけておくんだった。。。
最後に天保山のアミューズメントパーク内でイカ焼きを
食べてから帰路に着きました。御疲れ様でしたっ!!
|