拙者の感覚からすると、切腹って 武士が出現してきた時からあったものだと思っていたのですが、 切腹の作法が儀式化されて、 しだいに完備されてきたのは江戸時代中期以降になってからなのだとか…
つまり、武家の刑罰として切腹が定着してから、 その処刑様式が工夫されるようになったという次第なんでしょうね☆
そうなってくると腹を切ること自体は問題でなくなっていって、 一種の名誉刑として形式のみが重要視されるように…
扇子腹というのがその例ですね☆ 腹を切るための小刀さえ必要とせず、小刀のかわりに三方へ扇子を置いて、 それを手にしたところで介錯人が首を打ち落としたというものです☆
他の切腹の例をあげてみれば、 武勇の名を後世に残す、天晴れな自決手段としての立腹、 死を賭して目上の者に諌言する影腹、 恩顧の主人に殉ずる追い腹… などなどがありますね☆
切腹の元祖は、切腹人が肌脱ぎとなって小刀を取るために手を出し、 首が前にのびたところを介錯人が斬ったものだといいますが… こうした、形式が定まるまでの切腹は各人の死の動機によって様々だったようです☆ 腹を十文字に切り裂いて…(うっ…) その中に手を入れて大小腸をつかみ出し…(う゛ぅ…) 地面に叩きつけて死ぬなどという例が珍しくなかったらしいですし… (う゛う゛ぅ〜…本当に人のやることですか…<(+■+)>) これは最大の苦痛に耐える勇者の切腹法で、 武家には最もふさわしいと考えられていた時代にあたるもの☆
源平時代がそうで、義経の臣である佐藤忠信の切腹などがその例です☆
しかし、形式化すると、このような切腹の仕方は「無念腹」と呼ばれて むしろ卑怯未練の振舞いとして、忌まれるようになったようです… 切腹を命じたのは主君で、腹を切り開いて大小腸までつかみ出して叩きつけたのでは、 主君の命令に反抗したと見られても仕方ないということです☆
では、なぜ自殺で腹を切るという手段を日本人は用いたのか?
腹も下っ腹にあたる丹田、ここに魂が宿っていると考えて、
その腹を開くことで赤心を示すことに意味を持たせていたからだといいます☆
それほど己の芯にあるものを大切に想っていたということでしょうね…
今の世にそんな感覚が残っていないのが悲しくもありますが…
今それやったら自虐的すぎて目もあてられないでしょうね(T■T)
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・・・が、拙者の近辺で切腹騒動がありました!!
平成十三年六月六日☆ NHK『その時歴史が動いた』で土方歳三が紹介されました☆
明治二年(1869)、函館で明治新政府軍と戦闘中、 銃弾に倒れた元新撰組副長・土方歳三☆ 彼は”鬼の副長”から近代洋式戦術に優れ、 部下達から慕われる指導官へと変貌してゆきました☆ その過程を追い、死の瞬間、武士としての生き方が 明治維新史に焼き付けられた瞬間を描いたものでした☆
拙者も先輩隊士方とも、先週の番組で次回予告を聞いた時から、 「この日の『その時〜』は見逃せないね!」と鼻息を荒くしていたのです☆ ・・・だというのに、 先輩隊士の東氏が、ビデオの誤作動により見損ねたというのです!|(+□+)| これは一大事! 番組のエンディングの際にこの報がメールでもたらされ、同志内は愕然・・・☆ しかも、士道不覚悟であるとして切腹するというではありませんか☆ 思いとどませることもならず、介錯は拙者が・・・(TmT)/ 最後の言葉は「沖田さん…」でした…
後日、拙者が録画しておいた『その時〜』のビデオを持参して東氏の墓を参りました☆ 東氏の首は繋がり、腹もツルン×2に治ってしまいました☆ チャン×2♪(笑オチ)
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…と、和んでいたら第二の士道不覚悟が発覚! こちらは坂本竜馬大好きでありつつ新撰組(主に沖田総司)も好きな某氏…
平成十四年四月十六日☆ これまたNHK『その時歴史が動いた』で土方歳三が紹介されました☆ 彼の目を通して鳥羽伏見の戦いを紹介したものです☆ 味方の裏切り、負け戦という展開だったので見ていて苦しかったのですが、 この回も絶対録画は必須だったのです! だというのに… この某氏はすっかり忘れていて、見損なったというではありませんか…(T▼T) 士道不覚悟により切腹モノです☆ 後日、武士の情けで、録画したビデオを片手に某氏を伺いました☆ …介錯は沖田さんに頼みたいと言い残して逃亡されました(おおぅ!!)
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