■ 原田 左之助 : 死に損ね


快男児―――――

天保十一年、伊予松山藩の足軽、中間を勤める藩士、
原田長次の長男として生を受た左之助。

左之助が十五・六歳の頃、藩邸で小使いをしていた時の
藩邸にいた人の後日談によれば“なかなか怜悧な男”であったといいます。
が、根が剛胆だった左之助は、素っ裸に褌ひとつでほおかむりをし、
オランダ式の銃隊で使う太鼓を首から下げて打ち鳴らしながら
上士の住む屋敷町を歩いたという話もあるので、怜悧の意味を調べ直したり…。
また、その剛胆な性格から、目上の者にも傲慢で言うことを聞かなかったとも。
その為に制裁として集団リンチを加えられたこともあった、
という奇行も伝わっています。…それでもやはり生意気だったとか。

安政三年頃に江戸の松山藩邸で中間として働いき、
国元に戻ってからは若党になり、
後には江戸の三田藩邸などに取り立てられたりもしました。
仕事はキッチリしていたのでしょう☆ が、この間に
この時代の男のステータスとも言うべき“呑む・打つ・買う”
は全て錬磨していたというのですから…悪い友達がいたのでしょう。

この一歩間違えばキ●ガイと紙一重な(失礼っ)原田左之助という青年の持つ
常人には無いもの、といえば腹の傷!切腹の傷痕です。
「切腹の作法も知らぬ下司野郎」と罵られたのに憤慨して
腹を切ってみせた、という名残の品なのだそうですが…
余程腹に据えかねる物言いだったのでしょうね?
カチンッときたくらいで腹は切れんよぉ(+_+;)原田さんっっっ(焦)

手当が良かったのか生命力が人並み外れていたのか
切腹したにも拘らず、なんとか左之助は一命を取り留めます。
後の新撰組活動期に娶った左之助の妻、おまささんの話では
その腹の傷を自慢げに叩きながら“駕籠の中で切ってやった”
左之助は話して聞かせてくれたと言いいます。

この切腹エピソードを綴った小説や物語の多くがありますが
どれも往来で腹を切ったものとなってますね。
駕籠の中で切腹というのでは、フィクション的に
彼を描くのには一味掛けるのでしょうが、
この駕籠というポイントは特に切腹に関係するものではないのでしょうか?

例えば、「切腹の作法も知らぬ下司野郎」と罵ったのが上士で、
その駕籠に乗り込んで“嫌がらせ”に腹を切ったとか…どうでしょう?

その前にこの罵りが切腹に至る引き金だったと言うのは本当なのでしょうか?
本当であれば“切腹の作法も知らない”ということを馬鹿にされて怒ったのか、
“下司野郎”にカチンッと来たのか……(+_+)
って、どうせその両方にムカッとしたのでしょうが。
しかし“切腹”というものが会話で語られるこの時代、
どれだけの重みを持っていたのかがここでも伺えますね。

武士の社会で“切腹”は無くてはならないものだったのでしょう。
武士にしかないものだからこそ切腹は、
武士としてのステータス保持的存在でもあったと思われます。
だから武士の死に際において切腹はありがたい死に方であり、
逆に斬首などといった処刑は
「お前は“武士として”など殺してやるものか!」
といった意味を持っているわけで…
近藤さんの板橋処刑がその例です(悔っ)

そう考えると原田さんが切腹に及んだこの珍事件も
「俺は武士だからなっ」という思いが
多分に叫ばれているものだと感じられますね。
その者の切腹を笑うは、その者が武士であることを笑うと言うこと。
だからここで罵られたのも
「お前が武士だって?笑わせるな、ケケケッ」
といったニュアンスが含まれていたので、
原田さんは切腹して見せたというのではないでしょうか?
「俺はこんだけ立派に切腹できるんだぞ!笑えるものなら笑ってみろっ!」
くらいの気合で刀を突き立てたはずです。

口で言うより体現して見せた左之助切腹珍事件。
左之助の気性と漢ぶりを感じさせられるエピソードの一つです。

この後ら辺で脱藩して、江戸で試衛館道場に転がり込むに至るのですが、
そこらへんの詳しい経緯は不明。
槍を携えた脱藩浪人の左之助が試衛館の食客となるまで…
やはり槍の修行をしながら放浪していたのだと思われます。

酔っぱらうと前をはだけて腹を出して、ぺたぺた叩きながら、
「金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ」と言って
切腹の跡を見せていたというのですから
きっと放浪期にもこの逸話を聞かされた人は多かったかも?
新撰組とは関係無しに、何処かで語り継がれてたりしませんかねぇ?


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■ 原田 左之助 : 浪士隊


左之助がいない!?―――――

新撰組が結成された経緯のもとは浪士隊結成にありました。
将軍家茂上洛警護の名目で隊結成の為に浪士が応募され、
それに参加した試衛館一派が後に新撰組の中核となりました。

この浪士隊参加にあたり、皆、かなり熱が上がっていた模様。
「各々方、我ら他に聞くにこの際公儀において広く天下の志士を募り、
攘夷の手段を尽くすとのことである。
もし事実であるならすすんで我らも一味となり、
日頃の鬱憤を晴らそうではござらぬか」と計り、
列座は一も二もなくこれに雷同した(『新撰組顛末記』より)と言います。

が、この時に残されている手記や史料に浪士隊参加において
原田左之助の記録が残されていないというのは一体どういうことでしょうか?
皆が力み勇んで雷同するようなネタに食いつかない彼ではないはず。
むしろ先頭をきって応募に参じたと思われるのですが…はて?

浪士隊参加のメンバーには、『文久三年異聞録』によれば、
試衛館から近藤勇ら三人、石田村から土方歳三ら二人、
日野宿から井上源三郎ら四人、という応募予定者が記されており、
試衛館以外からの参加者に沖田林太郎(沖田総司義兄)、
馬場兵助、佐藤房次郎、中村太吉の四名が記されているとか。

…この時既に試衛館には近藤勇を道場主に門弟として
土方、井上、山南、永倉、藤堂、原田が食客として
寝起きしていたとされている…のだけれども。。。(CHECK1

これに原田さんが該当するであろう可能性があるのは
“試衛館から近藤勇ら三人”という表記。
だけど、これには沖田さん・山南さん・藤堂さんも該当する可能性があるわけで
彼らの内どの三人を示しているのやら?明確ではありませんね。

はっきりせぬまま、文久三年二月四日(1863.3.22)
小石川伝通院で浪士隊の初会合が開かれ、
注意事項や上洛にあたっての編成などが申し伝えられました。
そして明くる文久三年二月五日(1863.3.23)小島鹿之助が上洛を明日に控えた
近藤を訪ね、近藤が書き留めた編成表の一部を書き写しており、

近藤勇門人同(浪人)
山南啓助 土方歳三 沖田惣司 永倉新八 藤堂平助 井上源三郎

(『文久三年異聞録』より)とあるらしいのです…が…。。。(CHECK2

完全に原田さんの名前が欠落していますね。
近藤さん自身が書きとめたものでないので、小島さんが原田さんとは縁が薄く
認識が浅かった為に控え損じた可能性があります。
が、この控えを近藤さんが書き留めたものを隣に控えて書き写したのであれば
どうでしょう。。。そうであったら原田さんはこの時点で試衛館一派に
加わっていなかったことになってしまいます…え―――?

また、浪士隊が京へ上洛し、浪士隊編成を計画した清川八郎と袂を別ち、
近藤達が京に残留すること一ヶ月。
文久三年三月二十三日付けで、近藤は天然理心流の関係者宛に
「志大略相認書」と題した手紙を送っており、
その中で次の者達の為に剣術道具を送って欲しいと名前を列記しています。

剣術道具
近藤勇 土方歳三 井上源三郎 山南敬介 沖田総司 永倉新八

。。。あれ〜?(CHECK3

…剣術道具ということで、槍専門の原田さんには必要ないとされたのでしょうか?
そんな馬鹿な。それとも原田さんは持参したか、京で購入したか?
誰かから貰い受けたか、何処ぞより盗んだか…(冗談ですよ冗談)。。。
とにかく原田さん用に剣術道具を送ってもらう必要がなかったということで
この手紙に原田さんの名前が無いというのでない限り、
ここに至っても原田さんの存在が伺えないということになってしまいます。

『新撰組顛末記』で永倉さんは原田さんを試衛館の一員としているのだけれど
…これでは確証にたる証拠が残されていないことになってしまいます。
どうしてCHECK1〜3共に原田さんの名前が表記されなかったのでしょうか?

予想@ CHECK1・2…伝通院に参じることが出来なかった。
運悪く、原田さんは病中で床についていた、出稽古中であった等の理由で
浪士隊参加に応じる機会を損じてしまった為に記録されなかったのでは?

予想A CHECK1・2…浪士隊に応募はしたがケッタ。
というのは、当初、この浪士隊の応募は五十人の浪士に
一人五十両の手当てということで応募がなされたのですが、
三百数十人にのぼる応募浪士の為に一人十両と減額されたといいます。
「約束が違う」といって話を蹴ってしまった可能性もなきにしもあらず。
ですが、支給金如何によって云々という精神は彼には当てはまらないかな?
そう思うのは拙者の理想像を彼に押し付けていることになりますかな。

予想B CHECK1・2…浪士隊名簿作成の時にサボった。
どうにも若かりし頃の原田さんのエピソードから伺うに
彼はガサツな性格だったように思えますので、サボりやエスケープが想像されます。

予想C CHECK1・2・3…原田さんは試衛館メンバーではなった!?
もう、これは見も蓋もない結論ですね。。。ボツですボツ!

何か決定的な史料が見つかることを願いますね。
もちろん試衛館メンバーの一員としてv ←何時頃から一緒だったかも知りたい。


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